浄顕房と義城房~師となり弟子となって

報恩抄 建治2年7月21日

各各二人は日蓮が幼少の師匠にておはします。勤操僧正・行表僧正の伝教大師の御師たりしが、かへりて御弟子とならせ給いしがごとし。日蓮が景信にあだまれて清澄山を出でしに、かくしおきてしのび出でられたりしは天下第一の法華経の奉公なり、後生は疑いおぼすべからず。

意訳

あなた方、浄顕房と義浄房のお二人は、日蓮の幼少の時の師匠でありました。あたかも勤操僧正と行表僧正は、初め伝教大師(最澄)の師匠でありましたが、かえって後に、伝教大師の弟子となられたようなものです。日蓮が東条景信に嫌われ憎まれて、清澄山を出ようとしたとき、お二人で日蓮をかくまってくださり、ひそかに道案内までして無事に逃がしてくださったのは、まことに天下第一の法華経の行者に対するご奉公というべきです。お二人の後生の成仏は疑う余地のないことであり、堅く確信してください。

少年日蓮が山岳密教の霊場となっていた清澄寺に入山した時、師匠の道善房と共に学問の手ほどきをしたのが浄顕房、義城房の二人でした。この時の少年の胸には修学への意欲が漲り、また、期待と不安が入り混じっていたことでしょう。

後に仏教界を揺るがすほどの大人物となる少年ですが、大器の片鱗を感じとったであろう浄顕房・義城房との運命的なめぐり合わせ。

後に大聖人が比叡山等での修学を終え、故郷安房の国に帰り、立教した時には地頭の東条景信が反発。策動により、清澄寺から大聖人を排斥せんとした際にも、陰で守り離山の道程を導いたのが兄弟子たる浄顕房と義城房でした。

妙法尼御前御返事 弘安元年7月14日

日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく、人の寿命は無常なり。出る気は入る気を待つ事なし、風の前の露尚譬えにあらず。かしこきもはかなきも、老いたるも若きも定め無き習いなり。されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべしと思いて、一代聖教の論師・人師の書釈あらあらかんがへあつめて此を明鏡として、一切の諸人の死する時と並に臨終の後とに引き向えてみ候へばすこしもくもりなし

意訳

日蓮は幼少の時より仏法を学んできましたが、念願したことは「人の寿命は無常である。出る息は入る息を待つことがない。風の前の露というのは譬えだけではない。賢い者も愚かな者も、老いた者も若い者も、いつどうなってしまうかわからないのが世の常である。故に、まず臨終のことを習って、後に他のことを習おう」と思い、釈尊一代の聖教と論師や人師の書や釈をあらあら考え集め、これらを明鏡として一切の人々の死ぬ時と臨終の後とを引き合わせてみたところ、少しも曇りがありません。

神国王御書 文永12年または建治3年

日蓮此の事を疑いしゆへに、幼少の比より随分に顕密二道並びに諸宗の一切の経を或は人にならい、或は我れと開見し勘へ見て候へば故の候いけるぞ。我が面を見る事は明鏡によるべし、国土の盛衰を計ることは仏鏡にはすぐべからず。

意訳

日蓮はこのこと(檀ノ浦での安徳天皇の最期、承久の乱における三天皇の配流)について疑問を持ったために、幼少の頃から懸命に顕教・密教や諸宗の一切の経教を、あるいは人に学び、あるいは一人で開いて見て考えたところ、その理由があることを知ったのです。自分の顔を見るには明鏡によるべきであり、国土の盛衰を計り知るには仏法の鏡ほどすぐれたものはありません。

やはり、浄顕房・義城房の二人は、後にこのように述懐するようになる少年日蓮に、ただならぬものを感じることもあったのでしょうか。

修学から帰って以来、念仏を破折する大聖人に対しては知己であった清澄寺大衆の側でも、その思想、考え方、行動とは距離を取り、自身に類が及ばぬように保身に走るのが一般的であったことでしょう。事実、師僧・道善房がそうでありました。

ただ、浄顕房・義城房は違い、法弟であった人物を守り通したのです。そればかりか、幼少の時から面倒をみて学問の手ほどきしたかつての教え子が、「法華経実践の体現者、法華経の行者」たるを知ると師匠とし、その教えを拝する側、弟子の立場にたったのです。

日蓮大聖人は「曼荼羅本尊の意義」について、弘安元年9月に「浄顕房日仲」に宛てた「本尊問答抄」に、「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし」と曼荼羅本尊正意たることを教示していますが、これは「法兄たる浄顕房を通して万年の衆生へ教導したもの」ではなかったかと思うのです。

少年から是聖房、そして日蓮へ・・・法兄の教えに応えて伸びんと欲し、羽ばたき経験を積み、蓄えたる力を持って一切衆生救済の誓願の道を真っ直ぐに進み行く。

やがて、教えた側が教わる人となり、心の交流と言葉が未来へ向けてのメッセージ(それは判断基準ともいうべきもの)となる。

まことに「師弟の道」からこそ、永久なる価値、よきものが生まれると教わる思いとなるのです。

                          林 信男