身延の山中から彼方を見つめて~久遠の仏を体現するということ

【 身延の草庵で 】

「是日尼御書」 弘安元年4月12日

さど(佐渡)の国より此の甲州まで入道の来たりしかば、あらふしぎ(不思議)やとをも(思)ひしに、又今年来てな(菜)つみ、水くみ、たきぎ(薪)こり、だん(檀)王の阿志仙人(あしせんにん)につかへしがごとくして一月に及びぬる不思議さよ。ふで(筆)をもちてつくしがたし。これひとへに又尼ぎみの御功徳なるべし。又御本尊一ぷくかきてまいらせ候。霊山浄土にてはかならずゆ(行)きあ(合)ひたてまつるべし。

意訳

佐渡の国より甲州身延の山まで、(是日尼の)夫である入道が来られましたのでまことに不思議と思っていましたが、また今年も来られて、菜を摘み、水を汲み、薪取りをして、須頭檀王(すずだんのう)が阿私仙人に仕えたように一月にも及んでいるのは、何と不思議なことでしょうか。筆をもって文字として書き尽くすことは、難しいことなのです。これはひとえに尼君の御功徳となります。御本尊を一幅書き顕してさしあげましょう。霊山浄土では必ずや行き逢うことにいたしましょう。

佐渡在住の是日尼の夫である入道が遠路遥々、身延の日蓮大聖人のもとをたずね大聖人に給仕したことを、法華経「提婆達多品第十二」での阿志仙人に仕えた須頭檀王の「採果汲水。拾薪設食」(果を採り、水を汲み、薪を拾い、食を設け)と重ねながら労われています。

大聖人の記述には「法華経を我得し事は薪こり菜つみ水くみつかえてぞかし」との「法華経和歌」が連想されますが、こちらは行基または光明皇后の作とされているようです。

【 師と弟子のこころ 】

文永8年の法難で鎌倉法華一門は壊滅しながらも、配流地の佐渡の国で身一つから再起した大聖人。佐渡では、大聖人の志の大きさに比例するかのように阿仏房夫妻、国府入道夫妻、中興入道の父・次郎入道をはじめ多くの人々が妙法を唱えるにいたり、「佐渡百幅本尊」と呼ばれるほどの本尊を顕し続けました。文永11年(1274)5月、大聖人が身延に入山してからも佐渡の人々が師を慕う心はいやまして高まり、阿仏房、国府入道、是日尼の夫である入道、中興入道等が佐渡より山河遥かに隔てた身延へと訪れています。

建治元年に、国府入道が夫人の尼御前から単衣一領、阿仏房の尼御前から銭三百文をことづかり身延へ訪れた際には、「ゆめ(夢)かまぼろし(幻)か、尼ごぜんの御すがたをばみ(見)まいらせ候はねども心をばこれにとどめをぼへ候へ。日蓮をこいしくをはしせば常に出ずる日、ゆうべにいづる月ををがませ給え。いつとなく日月にかげをうかぶる身なり。又後生には霊山浄土にまいりあひまひらせん」(国府尼御前御書・夢か幻でしょうか、尼御前の御姿は拝見できませんが心はここにおられるのでしょう。日蓮を恋しく思われるならば常に、昇る陽を、夕に出ずる月を拝みなさい。何時であっても、私は日月に影を浮かべている身なのです。後生には霊山浄土へまいり、そこでお逢いすることにしましょう)と慈しみ溢れる言葉で包容するのです。大聖人の心はいつも佐渡の人々と共にあったことがうかがわれます。

【 生と死をみつめて 】

ここで気がつくことがあります。

是日尼には御本尊を顕して「霊山浄土にてはかならずゆ(行)きあ(合)ひたてまつるべし」、国府尼御前にも「後生には霊山浄土にまいりあひまひらせん」と、霊山往詣が説かれていることです。大聖人が佐渡に流された翌年、文永9年2月に著した「生死一大事血脈抄」の文末も「相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ」心して強盛の大信力を出だして、南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念していくのです、というものでした。

文永8年の法難で死地を乗り越えた大聖人は、自らの生と死の彼方の光景を眼前とし、霊山浄土もはや我がものとするような境地だったのでしょう。故に「生死一大事血脈抄」で、久遠より未来へと連なる生死一大事血脈の音声である妙法を唱え、臨終正念を祈念すること、即ち真の祈りはここにあるということを説き、佐渡期以降から霊山往詣の思想が説かれるようになったのではないでしょうか。

誰人も避けえない生と死の問題の解決。その彼方にある、三世に連なる妙法に包まれた世界。そこにこそ「過去の生死・現在の生死・未来の生死・三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とは云うなり」(生死一大事血脈抄)というものがあるように思うのです。

【 三度目の流罪と向き合い彼方を見つめて 】

師を求めて遥々と身延を訪れた人々と、温かく迎え入れ包容する大聖人。佐渡から身延へ続く師弟の絆には、師を求めてやまない純粋な信仰、求道心を感じてなりません。ここに日蓮仏法の師弟の原点があるように思います。

ところで是日尼への書簡が書かれた弘安元年4月12日といえば、建治年間を中心としたであろう大聖人の法華経講義である「御義口伝」が弘安元年1月1日に成り、後に「御講聞書」となる法華経講義が3月19日に始まったばかりでした。各地から集った弟子檀越は大聖人と寝起きを共にしながら、法華経の講義を聴聞したのです。身延山での師弟の光景からは日蓮一門の強さと逞しさ、まさに異体同心というものを感じますが、実は大聖人の身辺は穏やかなものではありませんでした。

「是日尼御書」の前日、4月11日付けで檀越某(四條金吾か)に宛てた書簡では以下のようにあります。

「檀越某御返事(四條金吾御返事)」弘安元年4月11日

御文うけ給はり候ひ了(おわ)んぬ。

日蓮流罪して先々にわざわい(災)ども重なりて候に、又なにと申す事か候べきとはをも(思)へども、人のそん(損)ぜんとし候には不可思議の事の候へば、さが(前兆)候はんずらむ。もしその義候わば、用ひて候はんには百千万億倍のさいわい(幸)なり。今度ぞ三度になり候。法華経もよも、日蓮をばゆるき行者とわをぼせじ。釈迦・多宝・十方の諸仏、地涌千界の御利生、今度みは(見果)て候はん。あわれあわれさる事の候へかし。雪山童子の跡ををひ、不軽菩薩の身になり候はん。いたづらにやくびゃう(疫病)にやをか(侵)され候はんずらむ。を(老)いじ(死)にゝや死に候はんずらむ。あらあさましあさまし。願くは法華経のゆへに国主にあだまれて、今度生死をはなれ候はゞや。天照太神・正八幡・日月・帝釈・梵天等の仏前の御ちかい、今度心み候ばや。

意訳

お便りは承りました。

(過去二回)日蓮を流罪したことにより、これまでも災難が重なっているのに、また何かと言われるようなこと(流罪)があるとは思えませんが、運尽きた人が滅びるような時には、余人には不思議と思えるほどの考えられないことをするのであり、流罪がないとはいえないでしょう。

もしそのようなこと(流罪)があるのなら、私の説くところを用いられるより百千万億倍もの幸いです。法華経もよもや日蓮を信仰懈怠な行者とは思わないでしょう。釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の菩薩の加護は厳然ですから、今度は見極めたいものです。この度は言われるようなこと(流罪)が起こることを願っています。雪山童子の跡を継承し、不軽菩薩のような身になりたいものです。いたずらに生き続けていても疫病により弱ってしまうか、年老いてやがては死にゆくことになります。嘆かわしいことでもありましょう。願うところは、法華経を信じ勧め広めた故に国主に憎まれて、今度こそ生と死の問題を解決してその彼方へと至りたいものです。天照太神・正八幡大菩薩・日天月天・帝釈・梵天等の仏前の誓いを今度こそ試したいものです。

佐渡から鎌倉に戻り、身延に入山してから3年以上が経ってからの再びの流罪の話です。大聖人は佐渡ではいつ謀殺されるかもしれずの中を生き抜き、後に弟子の日興上人より「佐渡国法華講衆」と称されるほどの一門を創り、身延に入山してからも本尊図顕、各地の弟子檀越への書簡を認め、病身でありながらも草庵で法華経を講義し、集う人々と題目を唱えました。そのような日々を奪うかのような、またもやの流罪の可能性・・・

しかし、大聖人の眼は遥か彼方を見つめており、三度目の流罪があったとしても、それは一閻浮提広宣流布・立正安国へ至る道程の一つにすぎないかのようでした。いや増しての強き言葉で流罪の恐怖をも包み込んでしまい、門下の不安を払しょくして励ますのです。何よりも、この時以降の曼荼羅図顕が現存だけでも70幅以上もあることが、三度目の流罪など気にすることなく、ただひたすらに「日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめん」(生死一大事血脈抄)として誓願に生きた人間日蓮の、それこそ「本物の勝利の証」でもあると思えてなりません。

「雪山童子の跡ををひ、不軽菩薩の身になり候はん」を願い、集う門下だけでなく、「今日蓮が唱うる所の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり」(御義口伝)と末法一万年の衆生救済を高らかに宣言するその姿こそ、久遠の仏そのままではないでしょうか。

                          林 信男