法華真言未分について

『守護国家論』は正嘉3年・正元元年(1259)頃の執筆と推定されていますが、そこには法華・真言を蔑(ないがしろ)にする故に天災地変が起きる旨が記述されており、当時の日蓮大聖人は「法華・真言未分」の思想であったと解説する向きがありますが、さて、いかがでしょうか?

結論的に言えば、『大聖人は立教からの中期的展望として密教批判も視野に入れてはいたが、釈尊の説法教化の次第に習ったものか、聞き手の機を考慮して順次次第に諸宗批判を展開されていった。故に一見して法華真言未分的記述も見受けられるが、それは日蓮が法門の骨格を成すものではない』と考えています。

・少年日蓮は安房国清澄寺で出家しており、そこには東密・台密の僧がおり、法華、密教を修学し、浄土教も学ばれていた。

・青年日蓮が修学研鑽に励んだ比叡山は諸宗融和・兼学にして諸行往生の道場であり、法華、密教、浄土、禅等の幅広い修学研鑽、修行が行われていた。

・立教以降、日蓮大聖人の法華勧奨の人脈は天台(台密)信仰圏であり、彼らに法華経最第一、専修唱題成仏を説くには思想的基盤を共有しながら妙法一途の信仰へと誘引していく必要があった。

・立教から暫くは、一凶として法然浄土教を徹底批判しており、これは密教に信を置く天台僧にも理解しやすいものであった。

・『守護国家論』と同年(1259)と推定される「武蔵殿御消息」(全集未収録)では、武蔵房に書籍の借用を依頼しながら天台宗の「法華八講」の日時を訪ねており、大聖人が天台僧の集まりに参加していたことがうかがわれる。

・彼らの機を考慮した対機説法により、日蓮初期教団は日昭、日朗をはじめ天台信仰圏の人々が中心となった。

・日蓮大聖人は立教から暫くして鎌倉に移っているが、立正安国論提出に至る鎌倉在住期での布教は天台信仰圏の人々が対象であり、彼らと共通の思想的基盤に立った上で、直ちに一凶として糾弾されるべきは法然浄土教であったから、思想的基盤の一翼を構成していた密教を批判する必然性はない。故に記述の一部に法華・真言未分的表現も散見されるようになった。

・守護国家論での、「法然の選択集・専修念仏を重んじて法華・真言を蔑にするところから天災地変が盛んになる」という考えは、翌年、鎌倉幕府に提出された立正安国論の一部にも見られる。

・この頃の大聖人の法華勧奨は天台信仰圏を土壌とした対爾前権教であり、そのことは後年の富士一跡門徒存知の事に記述されている。

一、唱題目抄一巻。(唱法華題目抄・文応元年[1260]5月28日)

此の書最初の御書・文応年中・常途天台宗の義分を以て且く爾前法華の相違を註し給う、仍つて文言義理共に爾なり。

意訳

此の書(唱法華題目抄)は、十大部のなかでは、最初に書かれた御書です。文応年中に通常の天台宗の義にもとづいて、一往、爾前権経と法華経の相違を書かれたものです。従って言葉、教義共に天台宗の範囲を出ていません。

・立正安国論の署名は「天台沙門」となっており、大聖人は天台信仰圏の立場で北条時頼を諫めている。当時としては、公に対する諫暁書に、公の宗派を名乗るのは当然のことであった。

このように日蓮大聖人の鎌倉での法華勧奨・妙法弘通は天台信仰圏から始まりましたが、文永5年(1268)初頭、蒙古の国書が到来して密教による異国調伏の祈祷が盛んになった頃から、東密の批判を本格的に始めるようになります。

文永6年(1269)とされる「法門申さるべき様の事(法門可被申様之事)」では、後半部分で真言批判を展開。

文永8年(1271)の法難、佐渡配流を経て文永11(1274)年10月の蒙古襲来(文永の役)からは、「最後なれば申すなり。恨み給ふべからず」(曾谷入道殿御書)と弘法大師空海に加えて慈覚大師円仁を主とした台密批判も開始。続いて建治から弘安にかけて、「立正安国論」に東密批判を書き加えます(建治の広本)。

以降は出身母体にして、立教初期はその信仰圏にあった天台宗の台密を東密と並べて「今日本国の諸人、悪象・悪馬・悪牛・悪狗(く)・毒蛇・悪刺(あくせき)・懸岸(けんがん)・険崖(けんがい)・暴水・悪人・悪国・悪城・悪舍・悪妻・悪子・悪所従等よりも此等に超過し、恐怖すべきこと百千万億倍なるは持戒邪見の高僧等なり」(富木殿御書)として徹底批判するのです。

以上、確認してきましたように、日蓮大聖人に法華真言未分の思想があったというよりも、法華真言未分的言説は立教初期に布教の対象とした信仰圏での思想的基盤の共有にして、衆生の機を考慮したものであり、その後は世の動向を踏まえながら諸宗批判を順次展開されていったということではないでしょうか。

※日蓮大聖人の法門の独創的なところは、「法華経最第一」「専修唱題成仏」の主題を掲げて、その旗幟のもとに既存の神仏、菩薩衆のみならず、批判対象とする他教までをも摂入・包摂して自己の法門として再生・定義、整足させて、日蓮法華信仰ともいうべき、独自の法華経信仰の世界を創り上げていったところにあるのではないでしょうか。

『我は為れ衆生の父なり。応に其の苦難を抜き、無量無辺の仏智慧の楽を与え、其れをして遊戯せしむべし』(譬喩品第三)

『是の諸の衆生は 皆是れ我が子なり。等しく大乗を与うべし』(同)

との久遠仏の思いを継承する日蓮大聖人であれば、一切衆生を包むだけではなく、大乗仏教、密教も一心に包みこんで、『日蓮が法門』として再構築していったと考えるのです。

守護国家論

是くの如き悪書(法然房源空の選択集)国中に充満するが故に、法華・真言等国に在りと雖も聴聞せんことを楽(ねが)はず、偶(たまたま)行ずる人有りと雖も尊重を生ぜず、一向念仏者、法華等の結縁を作すをば往生の障りと成ると云ふ、故に捨離の意を生ず。

此の故に諸天妙法を聞くことを得ず。法味を嘗(な)めざれば威光勢力有ること無く、四天王並びに眷属此の国を捨て、日本国守護の善神も捨離し已(お)はんぬ。

故に正嘉元年に大地大いに震ひ、同二年に春の大雨に苗を失ひ、夏の大旱魃に草木を枯らし、秋の大風に果実を失ひ、飢渇(けかち)忽(たちま)ち起こりて万民を逃脱せしむること金光明経の文の如し。

豈選択集の失に非ずや。仏語虚しからざる故に悪法の流布有りて既に国に三災起これり。而るに此の悪義を対治せずんば仏の所説の三悪を脱るべけんや。

                       林 信男