鑑真と弟子の物語り
大陸から続く鑑真と弟子たちの絆
この師弟の物語からは多くを学べると思います。
先に、鑑真の日本での弟子である道忠が関東に布教して一門となり、道忠とその意を受けた弟子が最澄(伝教大師)の書写事業等を手伝い比叡山寺の開創に関わり、道忠教団から初期天台宗の人材を輩出したことをまとめましたが、既にして鑑真在世から鑑真の一門が二つの流れに分かれていたことは興味深いものがあります。
それは共に鑑真の弟子である法進と思託で、東大寺戒壇院の戒和上となり南都仏教界に順応しながら昇進して国家仏教の一翼を担った法進。
大乗的見地に立ち人々を教化する菩薩行を重んじた思託。
この両者の違いです。
晩年の鑑真と弟子の道忠は後者の側に立っていたことは、薗田香融氏の論考「最澄の東国伝道について」(1954年 仏教史学第三巻第二号p.56~)の文中で指摘されています。
国家の中枢へ権力の側に↔人々の生活の現場民衆の中へ
国家仏教↔大乗的見地に立脚した菩薩行
皆が前者の側であったなら、果たして最澄による法華一乗、比叡山寺、後の天台宗が誕生したでしょうか。
比叡山寺、天台宗なければ果たして鎌倉仏教の導師たる法然、親鸞、日蓮、一遍、道元が存在したでしょうか。
初期比叡山寺開創に至る展開を知るほどに、仏教者はどこに思いを寄せるべきなのか、仏教者はどこに身を置くべきなのか?
それは『民衆の中へ』という一点であり、そこにこそ仏教者の原点があり、未来へとつながる自他共の希望があることを教わる思いとなります。
この原点を忘れ別の世界で泳ぐならば、『伽藍栄えて観光地、かたちだけの言葉が虚空に響く』という状態になることは、そびえ立つ建物が無言で私達に語っているように思うのです。