青年最澄の願文~約束の道から大願の道へ

延暦4年(785)4月6日、最澄は南都東大寺で具足戒を受戒して正式な僧侶になるも、3ヶ月後の7月17日には比叡山へ籠ってしまい山林修行を始めます。

官僧として出世の道が開かれていた19歳の最澄は、何を見て聞いて知って南都仏教に決別し、将来をもなげうったのでしょうか。

その直接の答えはなくとも、青年最澄が入山後に著した「願文」からその一端を知ることができると思います。

愚が中の極愚(もっとも愚か)、狂が中の極狂(もっとも狂っている)、塵禿(僧となり髪を剃ったとはいえ)の有情(煩悩にまみれ)、底下(最低の人間である)の最澄、上は諸仏に違い(逆らい)、中は皇法(天皇の法)に背き、下は孝礼を闕く(欠く)

最澄は自己を「愚かにして狂い、僧でありながら俗にまみれ、仏法・国法・世法に背いている」と評し、深き内省の極点にまで達したような心情を率直に明かします。その深みはそのまま高みまで昇らんとする金剛不壊不退の五つの心願へと昇華し、自己の解脱に留まらず法界の衆生を妙覚に登らせ仏国土を浄めるとするのです。

謹みて迷狂の心に随い三二の願を発こす。無所得を以て方便と為し、無上第一義の為に金剛不壊不退の心願を発こす。

我れ未だ六根相似の位を得ざるより以還出仮せじ。其の一。

中略

伏して願くば、解脱の味独り飲まず、安楽の果独り証せず。法界の衆生と同じく妙覚に登り法界の衆生と同じく妙味も服せん。

また、願文の書き出しは最澄の社会観、人間観、仏教思想、五濁の世に生まれた人間の悲哀と無常観に満ちており、感受性豊かな青年最澄の心のうちがそのまま表されている名文でもあると思います。

悠々たる三界(欲界・色界・無色界)は純ら苦にして安きこと無く、擾々(乱れ騒ぐ)たる四生は唯だ患にして楽しからず。牟尼(釈尊)の日久しく隠れて、慈尊(弥勒仏)の月未だ照らさず。三災の危きに近づき、五濁の深きに没む。加以(しかのみなら)ず、風命保ち難く露体消え易し。草堂楽しみ無しと雖も然も老少白骨を散じ曝し、土室闇く狭しと雖も而も貴賎魂魄を争い宿す。彼を瞻(見)、己を省みるに此の理必定せり。

仙丸未だ服さざれば遊魂留め難く、命通未だ得ざれば死辰何とか定めん。生ける時善を作さずんば死する日獄の薪と成らん。得難くして移り易きは其れ人身なり。発し難くして忘れ易きは斯れ善心なり。

自然災害、疫病、飢饉、大きな力の前にあまりにも非力で弱い人間、それでいて生を受ける意味、人間としての善き生き方、生死の問題、仏教の慈悲はいずこに・・・

人間として生きるに避けられない根本的な問題を解決することを、青年最澄は大いなる願いとしていたことが理解されるのですが、南都仏教界ではその出発点にすらなりえないと19歳の青年は決断したのではないでしょうか。

また、青年最澄の願いの大きさは、南都仏教に収まるものではなかったともいえるでしょうか。

後の最澄の足跡は、願文に一つずつ取り組み解決し、さらに発展創造へと至ったものであるように思うのです。

                        林 信男