妙法曼荼羅~神仏による啓示の時代から、唱題成仏の時代へ

日蓮大聖人の「立正安国論」冒頭では、打ち続く自然災害、疫病を「天変・地夭・飢饉・疫癘(えきれい)遍く天下に満ち、広く地上に迸(はびこ)る」と記述し、被害の惨状を「牛馬巷に斃(たお)れ、骸骨路に充てり。死を招くの輩既に大半に超え、之を悲しまざるの族敢へて一人も無し」と描写しています。

注目したいのは神仏に祈る、頼る、その様相です。

或は利剣即是(りけんそくぜ)の文を専らにして西土教主の名を唱へ、

或は衆病悉除(しゅびょうしつじょ)の願を恃(たの)みて東方如来の経を誦し、

或は病即消滅不老不死の詞(ことば)を仰いで法華真実の妙文を崇め、

或は七難即滅七福即生の句を信じて百座百講の儀を調へ、

有るは秘密真言の教に因って五瓶(ごびょう)の水を灑(そそ)ぎ、

有るは坐禅入定の儀を全うして空観の月を澄まし、

若しくは七鬼神の号を書して千門に押し、

若しくは五大力の形を図して万戸に懸け、

若しくは天神地祇(ちぎ)を拝して四角四堺(しかい)の祭祀を企て

親鸞の六角堂の夢告、一遍の熊野成道、「太平記」巻五の「時政江ノ島に参籠の事」に記された北条時政の江の島参篭等、人は神仏と感応道交し、その啓示を求めて社寺に参籠することが身分の上下、僧俗問わず活発に行われ、各地の社寺仏閣や書物には参籠にまつわる夢想、お告げ、物語が残されていくことになりました。神仏からの啓示というものが、「一つの新たなるものを創り上げる力の源泉」「無から有を生み出す根源」「現実を変革していく原動力」となっていた時代に日蓮大聖人は生きていたのです。

修学期の少年日蓮も然りで、「虚空蔵菩薩に願を立てゝ云はく、日本第一の智者となし給へ」 (善無畏三蔵抄 )との少年日蓮の大いなる祈願に応じて「虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給ひて明星の如くなる智慧の宝珠を授けさせ給ひき」との体験があったことを記しています。

もっとも、後年の述懐ですので、師匠・道善房を虚空蔵菩薩に寄せて、かく表現したと読み解けるわけですが。ただ、真言密教、天台密教、浄土教が共にある故郷の清澄寺は虚空蔵菩薩求聞持法で諸国に喧伝された霊場であり、大聖人は書状の中で、清澄寺の本尊としての虚空蔵菩薩に一定の配慮をされています。

「此を申さば必ず日蓮が命と成るべしと存知せしかども」(清澄寺大衆中・建治2年1月)と身命に及ぶ難は必定と覚悟した上で、建長5年に「安房国東条郷清澄寺道善の房の持仏堂の南面」(同)に於いて、「浄円房と申す者並びに少々の大衆に」(同)対して「これ」即ち法華経最第一の教説、法華勧奨を成したのは「虚空蔵菩薩の御恩をほうぜんがため」(同)であったとするのです。

もちろん、仏・菩薩像への信仰が当然であった清澄寺大衆の機根に配慮した対機説法であり、大聖人の宗教的包容心でもあるわけです。

建治2年7月21日、清澄寺の浄顕房・義成房にあてた「報恩抄」では、「本門の教主釈尊を本尊とすべし」としていますが、仏像信仰の世界へ法華経最第一、その教主釈尊に還ること、釈尊なき時代の釈尊は妙法曼荼羅であることをかく表現したものと理解できます。

報恩抄の「本門の教主釈尊を本尊とすべし」をめぐって

このように、受けての機根を考慮して大きな心で包みながら、やがて(弘安元年9月)同じ清澄寺の浄顕房にあてた書状(本尊問答抄)では

「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし」

と、末法の衆生は妙法曼荼羅を本尊とすべきことを教示するのです。

大聖人の清澄寺の人々への教示を確認していくと、対機説法を基調としながらも、次第に法門の骨格へと誘引していく日蓮仏法の教導のあり方が理解できるのではないかと思うのです。

「神仏による啓示の時代から唱題成仏の時代へ」日蓮大聖人は新たなる時代を創り上げたといえるのではないでしょうか。

                      林 信男