人間日蓮の歩みに思う

~法華経最第一・題目成仏の導師から、一閻浮提第一の本尊を一閻浮提に広宣流布する一閻浮提第一の聖人へ~

佐藤弘夫氏は『「立正安国論」上呈時の日蓮は「法華至上」の立場であり、「法華独勝」ではなかった。「立正」とは専修念仏を禁止し、既存の伝統教団の保護、興隆にあった。ただし、「立正安国論」では衰微する伝統仏教の現状は、比叡山の荒廃として描かれており、日蓮の真意は天台沙門として「山門の再興」を図るところにあった』(趣意)としています。

(「日蓮」2003年 ミネルヴァ書房、「日蓮 立正安国論 全訳注」2008年 講談社)

学説はそれとして、日蓮大聖人の一生を「人間日蓮」という観点から俯瞰すれば、「はじめに悟りありき」ということはなく、少年時代の祈願を見ただけでも「大いなる志」からその生涯が始まったということが理解できると思います。

「清澄寺大衆中」

日本第一の智者となし給へ

「善無畏三蔵抄」

日本第一の智者となし給へ

「佐渡御勘気抄」

本より学文し候ひし事は、仏教をきは(究)めて仏になり、恩ある人をもたす(助)けんと思ふ。

「破良観等御書」

日本第一の智者となし給へ

青年時代の修学研鑽、仏教を学び深めようとの探求と歩み・・・

後の立教以降の激しい妙法弘通と自在な法門展開から遡り考えれば、青年日蓮の修学には「仏教を学問と信仰から究めようとする人」「法の真実に生きようとする人」「非力な自己を乗り越えて同時代の衆生に仏の利益をもたらそうと苦悩し、葛藤し、挑戦を重ねる人」という、人間としての成長の歩みが見られるのではないかと思います。

青年日蓮は法華経を通して久遠の仏に直参し、対話を重ねて独自の内観世界というものを創り上げ、立教を機に現実の娑婆世界に「法華経最第一」「題目による成仏」として展開。人々への法華勧奨から他宗の僧・仏教者への折伏、時至って「立正安国論」による諌暁となり続く迫害・受難を、身を以て体験する中で経典の向こうにいる仏の真意を汲み取り一体化、やがてその内面は「一閻浮提第一の聖人」へと昇華していったのではないでしょうか。

特に文永8年の法難、竜口を境に、「三沢抄」で「法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門はただ仏の爾前の経とをぼしめせ」と記したように、大聖人の境地は一変したと思われます。佐渡期以降は、人は一閻浮提第一の人、顕すところの曼荼羅本尊は一閻浮提に未曾有であり第一の大曼荼羅、説くところの法は一閻浮提に流布することは必定、との記述が増えてくるのです。

文永10年4月25日、「観心本尊抄」

一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し、月支震旦に未だ此の本尊有さず

文永10年7月8日、通称「佐渡始顕本尊」の讃文

此法花経大曼陀羅 仏滅後二千二百二十余年一閻浮提之内未曾有之 日蓮始図之

如来現在 猶多怨嫉 況滅度後 法花経弘通之故 有留難事 仏語不虚也

意訳

仏滅後、二千二百二十余年を経過した今、一閻浮提の内に未だ出現したことのない未曽有の法華経の大曼荼羅を、日蓮が始めて図顕しました。法華経法師品に予言された、如来の現在、釈尊在世ですら此の経を弘める者に対しては、猶怨嫉が多いのです。ましてや如来滅後においては尚更である、との大難を蒙って日蓮が仏語を証明しているのです。

文永10年8月3日、「波木井三郎殿御返事」

当に知るべし、残る所の本門の教主妙法の五字、一閻浮提に流布せんこと疑ひ無き者か

文永11年5月24日、「法華取要抄」

是くの如く国土乱れて後上行等の聖人出現し、本門の三つの法門之を建立し、一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑ひ無き者か

文永11年7月25日、身延山で顕した曼荼羅(御本尊集13)の讃文

大覚世尊入滅後二千二百二十余年之間 雖有経文一閻浮提之内未有大曼 陀羅也得意之人察之

文永11年12月、通称「万年救護本尊」の讃文

大覚世尊御入滅後 経歴二千二百二十余年 雖尓月漢 日三ヶ国之 間未有此 大本尊 或知不弘之 或不知之 我慈父 以仏智 隠留之 為末代残之 後五百歳之時 上行菩薩出現於世 始弘宣之

意訳

大覚世尊=釈尊が入滅された後、二千二百二十余年が経歴しますが、月漢日(インド・中国・日本)の三ヶ国に於いて未だなかった大本尊です。日蓮以前、月漢日の諸師は、或いはこの大本尊のことを知っていたが弘めず、或いはこれを知ることがありませんでした。我が慈父=釈尊は仏智を以て大本尊を隠し留め(釈尊より上行菩薩に譲られて)、末法の為にこれを残されたからです。後五百歳の末法の時、上行菩薩が世に出現して初めてこの大本尊を弘宣するのです。

系年、文永11年または建治元年とされる「聖人知三世事」

日蓮は一閻浮提第一の聖人なり

建治元年4月「法蓮抄」

此の国に大聖人有りと。又知んぬべし、彼の聖人を国主信ぜずと云ふ事を

同じく4月、曼荼羅(20)の讃文よりほぼ定型化

仏滅後二千二百卅余年之間一閻浮提之内未有大曼陀羅也

6月10日、「撰時抄」

漢土日本に智慧すぐれ、才能いみじき聖人は度度ありしかども、いまだ日蓮ほど法華経のかたうどして国土に強敵多くまうけたる者なきなり。まづ眼前の事をもつて日蓮は閻浮提第一の者としるべし。

このような大聖人の「自己、説示する法、顕す本尊の宗教的位置付け」は、竜口以降の時代での、「一切衆生への説法教化の主体は我と我が一門なり」との自覚が横溢してきた、それは大聖人の内面世界が「導師から教主へと変化していったことを物語る」のではないでしょうか。

大聖人は国府尼御前に「日蓮こい(恋)しくをはせば、常に出づる日、ゆう(夕)べにい(出)づる月ををが(拝)ませ給へ。いつとなく日月にかげ(影)をう(浮)かぶる身なり」と優しく語りかけましたが、たずね、求め、御書の世界に分け入って知るほど、読み解くほどに、大聖人は語り教えてくれているように思うのです。

                       林 信男