妙法曼荼羅の形相の起源をめぐって~明恵房高弁と日蓮 3

【 高弁の教説と本尊・日蓮の教説と本尊 】

ここまで確認して思い至ったのは、源空に対した当時の高弁の教説と本尊、高弁に倍して源空を批判した日蓮大聖人の教説と本尊の原型に類似性があるのではないかということです。

大聖人が高弁の本尊と「三時三宝礼釈」に接したという確証はないのですが、大聖人は「摧邪輪」の教説がかえって浄土教流布の手助けとなってしまったことを指摘しており、であれば「摧邪輪」を熟読してそこから高弁の様々な教説・本尊に接していたとの推測も可能ではないでしょうか。

「般舟三昧経」「十住毘婆沙論」「浄土論註」「安楽集」「観念法門」「往生礼賛」「般舟讃」「観無量寿経疏(観経疏)」「選択本願念仏集」「往生要集」「往生拾因」「往生講式」等、多くの浄土教関係の経論に接した日蓮大聖人であれば、専修念仏を批判するに当たって源空批判の先達の書の多くに目を通すことも、十分に考えられることでしょう。また次代の日蓮と先代の高弁に共通性があるということは、大聖人の常である摂入思考からすれば十分その可能性はあると思うのです。

専修念仏を主張する源空と弟子の前に立ち、「三宝礼の名号本尊」への信仰と「三時三宝礼釈」での自説(=易行)によって衆生済度を成さんとした高弁の教理展開と、日蓮大聖人の法華経信仰の功徳力説示と妙法曼荼羅の展開を重ねてみましょう。

< 本尊礼拝・題目の功徳 >

高弁は「三宝礼の名号本尊」への礼拝について、仏法に相応しい文字でもって立派な一切経となりうる、「南無同相別相住持仏法僧三宝」の一行に功徳があると説きます。

「三時三宝礼釈」より

「まず初めに、(菩提心の名号を)文字に書いて、(それを礼拝用の)本尊とすることについてですが、経典の文字といいますのは、いうなれば、如来の海印三昧から現われ出たものです。あるいは、仏地の後得智から出てきたものです。およそ、(経、律、論の)三蔵の法文で、(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静・一切皆空という仏法の)四印の意味をはっきりさせることができますと、仏法にふさわしい文字でもって、りっぱな一切経となりうるのです。そして、これによって、密教では、ある場合には、名号そのものを真言としたり、ある場合には、この名号を観想(の対象に)して、真実究極(実際)の悟りに到達するのです。」

「たとえ、ほかの修行のつとめがないとしても、南無同相別相住持仏法僧三宝へのつとめに功徳があるのです。」

日蓮大聖人は妙法の二字に「法華経の肝心たる方便・寿量の一念三千・久遠実成の法門」がおさまっている、「妙法蓮華経の五字」を唱える功徳は莫大なることを力説します。高弁・日蓮共に易行です。

「唱法華題目抄」 文応元年5月28日

問て云く 只題目計りを唱ふる功徳如何。

中略

諸経の題目に是れを比ぶべからず。其の上、法華経の肝心たる方便・寿量の一念三千・久遠実成の法門は妙法の二字におさまれり。

中略

故に妙法蓮華経の五字を唱ふる功徳莫大也。

「四信五品抄」 建治3年4月10日

問ふ、汝が弟子一分の解無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何。

答ふ、此の人は但四味三教の極位並びに爾前の円人に超過するのみに非ず、将又真言等の諸宗の元祖・畏(い)・厳(ごん)・恩(おん)・蔵(ぞう)・宣(せん)・摩(ま)・導(どう)等に勝出すること百千万億倍なり。請ふ、国中の諸人我が末弟等を軽んずること勿れ。進んで過去を尋ぬれば八十万億劫供養せし大菩薩なり。豈煕連一恒の者に非ずや。退いて未来を論ずれば、八十年の布施に超過して五十の功徳を備ふべし。天子の襁褓(むつき)に纏(まと)はれ大竜の始めて生ぜるが如し。蔑如すること勿れ蔑如すること勿れ。

< 高弁の文字本尊・日蓮の妙法曼荼羅 >

高弁が作成した「三宝礼の名号本尊」は、中央に「南無同相別相住持仏法僧三宝」と文字を書き、左右に八十華厳(巻二十七)十廻向品にある菩提心の異名二十種から「万相荘厳金剛界心、大勇猛幢智慧蔵心、如那羅延堅固幢心、如衆生海不可尽心」を選んで書き入れ、上部には横一列に三宝を梵字で並べています。

日蓮大聖人が文永8年10月9日に「相州本間依智郷」において顕した曼荼羅=通称・楊子御本尊は、中央に「南無妙法蓮華経」の首題を書き、自署花押と左右に「不動明王・愛染明王」を書いています。初期の曼荼羅には「首題、自署花押に釈迦・多宝の二仏と不動・愛染明王」という、簡略化された相貌のものが多く、その相貌・配列法は高弁の「三宝礼の名号本尊」と通じるものがあるのではないでしょうか。何よりも両者の共通点で特徴的なのは、「文字で顕した本尊」であるということです。

< 仏像(絵像・木像)と曼荼羅本尊 >

続いては仏像(絵像・木像)と曼荼羅本尊の関係です。

「三時三宝礼釈」に「財宝にめぐまれず、仏画(図絵ノ仏像)を手に入れることができない人は、この名号にむかって、わずか一体の仏や一体の菩薩の姿を心に思い浮かべるだけでもいいのです。それだからといって、(仏の救済に)漏れるというようなことはありません。」とあるところから、当時の高弁が布教対象とした人々の社会での階層が窺われ、それは財宝ニ貧キヤカラ=底辺の人々も含まれていたことを物語るものでしょう。

日蓮大聖人の檀越でも釈迦仏像を造立したのは一部の者だけで、門下に授与した曼荼羅本尊の多さ、弘安期に相貌座配を少なくした一紙の曼荼羅が多い(大聖人の病状もあるが)ことからも、大聖人とその門弟の階層と財力が窺え、このことは高弁と日蓮大聖人の布教対象の階層に通じるものがあったことを意味していると思われます。

「唱法華題目抄」(文応元年)にある「第一に本尊は法華経八巻・一巻・一品、或は題目を書きて本尊と定むべしと、法師品並びに神力品に見えたり。又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書きても造りても法華経の左右に之を立て奉るべし。又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし」の「たへたらん」には、「財力のある」という意が含まれていると考えます。

朝廷や幕府関係者、社会的立場のある者は生まれて以来、仏教の本尊といえば仏師が精魂傾けて作り上げた仏像か、絵師がこれまた繊細なる技法で描き上げた絵像、密教などの信仰世界を絵で表した曼荼羅などであったでしょう。壮麗なる仏像群を取り払って、「三宝礼の名号本尊」または妙法曼荼羅一紙だけを安置したら、彼らはどのように思うでしょうか。

逆に、天災地変・飢饉が起き、疫病が発生すれば真っ先に犠牲となってしまう(実際、史実はそうであった)多くの庶民は、立派な仏像を造る余裕など当然ながら持ち合わせていません。ですが、仏教者の精神として、高弁は「更ニモレ給ヘルハ有ベカラズ。」と一人も漏れなく救われるのだと説き、日蓮大聖人は「一切衆生の同一苦は悉く是日蓮一人の苦と申すべし」(諌暁八幡抄)として社会的階層にとらわれず日本国の一切衆生を救済せんとしており、であれば、「本尊授与の基準」をどこに置くべきかは自ずと明らかで、そこから両者共に紙の本尊・曼荼羅という形態に至ったのではないかと考えるのです。

順を言えば、高弁の先例に日蓮大聖人が習ったのではないでしょうか。大聖人が高弁の教説と本尊の図様に接する可能性があるのは、やはり青年の時、京畿修学時代です。それは、源空批判を始めるにあたって、関係書籍を読破する過程でのことでしょう。文永8年10月以降、妙法蓮華経の文字を紙に書いて文字曼荼羅を顕し始めた大聖人の念頭には、密教の曼荼羅以外に高弁の「三宝礼の名号本尊」というものがあったのではないかと思うのです。

【 日本仏教の流れの中で 】

高弁は顕密仏教随一の論者で華厳宗の僧、日蓮大聖人も、もとは台密の僧でありいわば旧仏教側の僧でした。この両者が源空を批判しながら、その教説と実践法より大きな影響を受けているのです。源空の時代を読み解く力、洞察力そして表現力、布教力には優れたものがあり、「聖道・難行・雑行」とされた既存の仏教勢力は恐れをなして弾圧・迫害を加えながらも時代の動向は無視できず、自らの変革も促され、批判対象である源空の手法を取り入れ続いていった、というのが源空以降の展開だったと思います。

このように、日本仏教という大河の流れの中で、前代からの継承もあれば次の時代にはそぎ落とされるもの、また深化されるもの、新しく生まれるものもあり、鎌倉時代中期に生きた日蓮大聖人は、天台はもとより密教、念仏等から本尊、教説、実践法など多くのものを摂入して法華経信仰世界のものとした、即ち日蓮法華教化していったのではないでしょうか。

                       林 信男