清流と濁流

祈祷抄

此の経の文字は即釈迦如来の御魂なり。一々の文字は仏の御魂なれば、此の経を行ぜん人をば釈迦如来我が御眼の如くまぼ(守)り給ふべし。人の身に影のそ(添)へるがごとくそはせ給ふらん。

  

文中の釈迦如来を日蓮に、経を御書に置き換えたらどうでしょうか。

そして、我が師匠とその言葉に。

それが『信仰』というものだと思います。

師の言葉に触れる時、そこには師がいます。

姿は見えませんが、心の中には師が厳然と存在する。これほど心強いこと嬉しいことはありませんし、『私は一人ではない、最高に強き人、優しき人と共にいるのだ』との安心感に包まれます。

対して、師の言葉を削り、書き換え、つぎはぎにする、意味を違うものにしたらどうでしょうか。異質な師が出来上がってしまいます。宗教史を概観すれば、師の権威を高めて教団を統率しようとする人々によりそのようなことがなされていますが、そこから「師のこころ」が薄くなり忘失の彼方になってしまうのではないでしょうか。

師匠の真実、言葉をありのままに伝えるということ。

そこに師の心の継承という清流が通うのでしょうし、その逆ならば「薬に毒を加うるがごとし」(諌暁八幡抄)の、毒の水の濁流となり皆で飲むことになってしまいます。その先の光景は・・・想像外の異質な世界になるのでしょう。

 

                      林 信男