人間日蓮の生き方・我が胸中の師匠と共に志の道を進む
宗教集団(教団)の信仰世界は、ある種の閉じられた精神空間。
その中心に位置する人物が教祖、導師、会長、座主、教え主、導主、リーダー等と呼ばれる人たち。人間世界に在る彼らが人間世界を超越(=教義的に位置付けが高められる、神秘性を増す)するほどに、その宗教的威光と権威は高まり、信者・会員の「信じる」というものが前提にある世界ですから、「神話の中心に位置してまぶしいほどに綺麗な言葉で装飾され高められた宗教的リーダー」に陶酔、信伏する人も、ある程度は自然増加することになります。
ですがこの時点で、「人間であるようでいて人間の中でも特別な、宗教的最高位にまで高められた人間」となることにより、宗教的リーダーの「人間そのもの=人柄、庶民性による信者・会員との絆」は薄められ、宗教集団(教団)の中ではリーダーが絶対若しくはそれに近い存在となり、集団(教団)内ではリーダーに「信を取る」ことが「当然の前提」ということになってきます。
「慕われ、敬愛され、共にいる人」から「従え、統率する人、絶対性を帯びた権威」の誕生ともいえるでしょうか。
宗教的リーダー自らがこのような道を進むこともあれば、リーダーが表舞台に出れなくなる(亡くなる、病気等)ことにより、統率力・吸引力の劣る側近がそのような「仕組み(実はカラクリ)」を作ることもあります。
ここにおいて「信仰の内実と態様」は変質し、そこに息苦しさ、異質なものを感じた人々が教団と距離を取る、離れるのもまた自然なことでもあるでしょう。
なぜなら、同じ宗教集団(教団)を形成していても、「個々人の信仰というのは個々人のものであり、教団のものではない」「宗教的リーダーと信者・会員との絆は一人一人のもの」だからです。
統率力・吸引力を高めようとする教団。対して、自らの信仰に目覚めて教団の変質を指摘、その反復により増々、個の信仰の中身を創りあげる人々。
宗教世界の歴史でも、幾度となく繰り返されてきたことですが、その先にある光景は・・・・?
まさに「君たちはどう生きるか」が問われると思いますし、「在世は今にあり今は在世なり」(種種御振舞御書)と『絶対化された仏・教団統率のシンボルとしての仏ではなく、四苦八苦の人間世界で共に光明となり、共に生きる人として仏を捉えた人間日蓮の生き方=我が胸中の師匠と共に志の道を進む』に、その大いなる明答があるのではないかと思うのです。