蘭室の友
国家神道・現人神、神州不滅、神国不敗、神風が吹いて勝つ・・・
戦時中の日本は、妄想ともいえるものが多くの人の脳内で確信・既成事実となり、独り歩きした共同幻想に万人がすがりついたものの、現実はといえば都市は空襲により焦土と化して人間生活が破壊され、追い打ちをかけるように自然災害が相次ぎ国土は痛めつけられました。
「いつか経験したこと」が再びなのでしょうか。
モリカケサクラから今日の危機管理へと続く政道の乱れ、権力に魂を抜かれたと思える宗教の為体(ていたらく)、その深刻度に比例するかのような疫病の蔓延、自然災害・大雨と地震の多発、火山噴火の増加、国際情勢の激変を合わせ考えるにつけ、『ただ事ではないその時』が迫っているような気がします。
「立正安国論」に説かれる政治と宗教、天災地変、国際情勢等を学んだ身であれば、「亡国」など思いたくなくとも考えねばならない「日蓮仏法の存在する所以」でもあると思います。
弟子一仏の子と生れて諸経の王に事う、何ぞ仏法の衰微を見て心情の哀惜を起さざらんや
立正安国論
まさかこの「心情の哀惜」を共有する日が来ようとは思いませんでしたが、それもまた「時のめぐりあわせ」というものなのでしょう。ここで嘆くだけではなく、大聖人が示す災難への根本対処法を確認してみましょう。
「彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」
では、具体的にはどのように禁じるのか?
その前に客は問いかけます。
「夫れ国は法に依つて昌え法は人に因つて貴し、国亡び人滅せば仏を誰か崇む可き法を誰か信ず可きや、先ず国家を祈りて須く仏法を立つべし、若し災を消し難を止むるの術有らば聞かんと欲す」
万人を苦しめる大災害。
その災を消し難を止むるの術があるならば、是非とも聞きたいものだ。
主人は答えます。
「謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば国中安穏にして天下泰平ならん」
実に明瞭です。
謗法の人を禁めて、正法の人を重んじれば国中安穏にして天下泰平と、ただこれだけなのです。
弘安3年5月の「諸経と法華経と難易の事」にも、「仏法やうやく顛倒しければ世間も又濁乱せり、仏法は体のごとし世間はかげのごとし、体曲れば影ななめなり」とあります。
では「禁めて」とはどういうことか?
主人は言います。
「全く仏子を禁むるには非ず唯偏に謗法を悪むなり、夫れ釈迦の以前仏教は其の罪を斬ると雖も能忍の以後経説は則ち其の施を止む、然れば則ち四海万邦一切の四衆其の悪に施さず皆此の善に帰せば何なる難か並び起り何なる災か競い来らん」
謗法、悪法に施さず善に帰依する、即ち自らの眼で善悪を見抜くということ、この一点なのです。
悪法に施さないとは、悪法流布の力の源泉を断つということです。
これこそ、誰にでも直ちに実行できる一凶を禁ずる取り組みです。
ですが、これがまた簡単なようで難しいものでもあります。
まずもって善悪の区別がつかないことでしょう。であれば悪に施し、善を遠ざけてしまうことも容易に起こりえてしまいます。
また、ありとあらゆるしがらみの中で生きているのが人間です。
ましてや、第六天の魔王が妻子や父母の身に入って誑かす、立場・権力ある者の身に入って脅してくるのですから(兄弟抄)、たまりません。「人の心は時に随つて移り物の性は境に依つて改まる」(立正安国論)とあるように、強いようでいて弱いのが「人の心」です。
そこで、善悪を知り悪法に誑かされないためにも、
「汝蘭室の友に交りて麻畝の性と成る」(同)
という「蘭室の友」と交わるための「はじめの一歩」が必要になるのではないでしょうか。
かくいう私も、多くの友と縁することによって、私なりの『気づき』というものがあったわけです。
ある意味おもしろいですね。大きなことを考えているうちに、結局は一人の信仰なのです。天災地変、ただ事ではないその時、亡国、国家、災を消し難を止むるの術、謗法、正道、悪法、施を止む、四海万邦一切の四衆、善に帰すということを考えているうちに人の心、物の性そして蘭室の友へといたります。
大から個へ、そして個から大への展開です。
『大いなることは一人の胸中におさまり、一人の胸中から大いなることが始まる』
それが日蓮仏法なのだと思います。