師匠の教示とその心の継承

『師の言葉を生かし活かさない。更には削り書き換えれば師の思いは抹殺されるだけでなく、そこから生まれるのは邪義である』ということについて。

日蓮大聖人は身延に入山した翌年の文永12年(1275)3月10日、下総の曾谷・大田両氏に宛てて書状(曾谷入道殿許御書)を送ります。その中でも次の一節からは、基礎的資料収集の万全を期す大聖人の意が読み取れるものであり、いかに教理面の整備・充足、そして完成に心を砕いていたかが理解できると思います。

同時に、「若し黙止して一期を過ぐるの後には、弟子等定んで謬乱出来の基なり」との記述には、「後世に自らの真意が伝わらなければ誤った教義が生まれてしまう」ことを大聖人が危惧していたことが読み取れます。

それは一言一句違えずに、次の時代に我が言葉が継承されることを期していたということであり、仮に後代の弟子が勝手に師の言葉を削ったり、変えたりしたならば、それこそ「師敵対の悪行」というべきでしょう。

ところが、そのようなことを実際になしたのが大聖人の一弟子であり、師の書状を軽んじて「諸方に散在する処の御筆を或はスキカエシに成し或は火に焼き畢んぬ」と、師に敵対する行いが「富士一跡門徒存知の事」に記されています。

「日興、聖人の御書と号して之を談じ之を読む、是れ先師の恥辱を顕す云々」

富士一跡門徒存知の事

日興は師匠の手紙を御書として読み語りしているが、聖人の書状は相手の教養、レベルに応じて説いただけであり、愚癡の者を引摂した程度の文章だから、それらを人に語るなどかえって師匠の恥をさらすことになるではないか。

この瞬間に、師匠が危惧していたことが、よりによって師が慈愛を注いで教導し、次代を託していた最側近の手によって行われてしまったのです。

師が亡くなってはるか後代ではなく、師と共にあった教団最高幹部により師の真意がねじ曲げられたということは、師の側にありながら、「あんな、ひらがな文字で愚鈍の民に教示するなど、恥ずかしいことだ」と思っていたということでしょう。

師匠の近くにいて自らも励まされていたのに、師の心とは全く異なるいのちであった弟子たち。しかも六人中の五人という多数だったのです。

五老僧の言い分はまさに血脈のように、現代まで流れ通っていると思います。

「曾谷入道殿許御書」

本文

此の大法を弘通せしむるの法には、必ず一代の聖教を安置し、八宗の章疏を習学すべし。然れば則ち予所持の聖教多々之有りき。然りと雖も両度の御勘気、衆度の大難の時、或は一巻二巻散失し、或は一字二字脱落し、或は魚魯の謬悞、或は一部二部損朽す。若し黙止して一期を過ぐるの後には、弟子等定んで謬乱出来の基なり。爰を以て愚身老耄已前に之を糾調せんと欲す。而るに風聞の如くんば、貴辺並びに大田金吾殿の越中の御所領の内、並びに近辺の寺々に数多の聖教あり等云云。両人共に大檀那たり、所願を成ぜしめたまへ。涅槃経に云はく「内には弟子有って甚深の義を解り、外には清浄の檀越有って仏法久住せん」云云。天台大師は毛喜等を相語らひ、伝教大師は国道・弘世等を恃怙む云云。

意訳

この大法を弘通するためには、必ず釈迦一代の聖教を用意して八宗(華厳、三論、法相、倶舎、成実、律、真言、天台)の章疏(経典注釈書)を教材として学習すべきである。

私が所持する聖教も多くあったのだが、伊豆・佐渡の流罪と何回もの大難の時に一巻・二巻を散失し、一字・二字が脱落したり、或いは魚と魯は字体が似ていて誤りやすいように書写の際に文字を写し間違えたり、一部・二部を破損してしまった。もしこれらを直さずに一生過ごしてしまうならば、やがては弟子達の間で議論となって私の真意が伝わらずに誤った教義が出来する因となってしまうことであろう。故に私が老境に入る前に経典、章疏の不足、欠落箇所等、詳細を調べ修正、整備しておきたい。

人から聞いたところでは、貴殿(曾谷)と大田金吾殿の越中の領地内、そして近在の寺々に数多くの聖教があるということだ。曾谷殿と大田殿は共に日蓮の大檀那なのだから、私の願いを是非、かなえて頂きたいものである。

涅槃経には「内には智慧の弟子が有って甚深の義を了解し、外には清浄の檀越が有って仏法は久住する」と説示されている。天台大師は毛喜等と相語らって帰依せしめ、伝教大師は大伴国道・和気弘世等を頼り両名もまた最澄を助けたのである。

                          林 信男

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