誰が法華経の行者で、誰が僣聖増上慢なのかを明確にするところに日蓮仏法あり

下山御消息

法華経に云く「或は阿練若に納衣にして空閑に在りて、乃至利養に貪著するが故に白衣の与に法を説いて世に恭敬せらるること六通の羅漢の如きもの有らん」、又云く「常に大衆の中に在て我等を毀らんと欲するが故に国王大臣婆羅門居士及び余の比丘衆に向つて誹謗して我が悪を説き乃至悪鬼其の身に入つて我を罵詈毀辱せん」、又云く「濁世の悪比丘は仏の方便随宜所説の法を知らずして悪口して顰蹙し数数擯出せられん」等云云、

涅槃経に云く「一闡提有つて羅漢の像を作し空処に住し方等大乗経典を誹謗す諸の凡夫人見已つて皆真の阿羅漢是れ大菩薩なりと謂えり」等云云、

今予・法華経と涅槃経との仏鏡をもつて当時の日本国を浮べて其影をみるに誰の僧か国主に六通の羅漢の如くたとまれて而も法華経の行者を讒言して頸をきらせんとせし、又いづれの僧か万民に大菩薩とあをがれたる、誰の智者か法華経の故に度度・処処を追はれ頸をきられ弟子を殺され両度まで流罪せられて最後に頸に及ばんとせし、眼無く耳無きの人は除く眼有り耳有らん人は経文を見聞せよ、今の人人は人毎とに経文を我もよむ我も信じたりといふ只にくむところは日蓮計なり経文を信ずるならば慥にのせたる強敵を取出して経文を信じてよむしるしとせよ、若し爾らずんば経文の如く読誦する日蓮をいかれるは経文をいかれるにあらずや仏の使をかろしむるなり、

今の代の両火房が法華経の第三の強敵とならずば釈尊は大妄語の仏・多宝・十方の諸仏は不実の証明なり、又経文まことならば御帰依の国主は現在には守護の善神にすてられ国は他の有となり後生には阿鼻地獄疑なし、而るに彼等が大悪法を尊まるる故に理不尽の政道出来す

意訳

法華経勘持品第十三には「或いは山林の閑静なところにいて、(ぼろを継ぎ合わせた=実際は華美な)法衣を着て、人のいない所にいて~自らの利益に執着するが故に、在家の人々のために法を説いて、世間の人々から六神通を得た羅漢のように尊敬される者があるであろう」とあり、また「常に大衆の中にあって我らを毀(そし)ろうとするが故に、国王や大臣・婆羅門・在家の有力者、及び他の比丘達に向かって我々を誹謗・中傷し~悪鬼が彼らの身に入って我らを罵り辱めるであろう」とあります。

また「濁悪の世の悪比丘は、自分の信ずる教えは、仏が人々の機根に随って方便として説いた教えであることを知らずして、(法華経の行者に対して)悪口を言い、顰蹙(ひんしゅく)し、しばしば追放されるであろう」等と説かれています。

涅槃経には「一闡提の徒が阿羅漢の姿を装って静かな所に住し、方等大乗経典を誹謗するであろう。もろもろの凡夫は皆そうした人を見て、彼らこそ真の阿羅漢であり大菩薩であると思うであろう」等と記されています。

今、私がこの法華経と涅槃経の金言を鏡として現在の日本国を映し出してその姿を見ると、国主に六通の羅漢のように尊敬され、しかも法華経の行者を讒言して頚を切らせようとした僧はいったい誰でありましょうか。また万民から大菩薩と仰がれている僧はいったい誰でしょうか。

一方、法華経の故に度々、所を追われ首を斬られようとし、弟子を殺され、二度まで流罪にあい、最後には斬首されようとした智者はいったい誰でしょうか。

眼がなく耳のない人はともかく、眼があり耳のある者であれば経文をよく見て、聞きなさい。今の人々は誰もが「私も経を読んでいる、経を信じている」と言いながら、ただ憎むところは日蓮ばかりなのです。経文を信ずるというなら経文に明確に記されている三類の強敵を呼び起こし、これをもって経文を信じているという証拠としなさい。もしそうでなく、経文の通りに読誦している日蓮に対して怒るのは、経文そのものを怒ることではありませんか。それは仏の使いを軽んじていることになるのです。

現在の両火房(極楽寺良観)が法華経の第三の強敵とならなければ、釈尊は大嘘つきの仏であり、多宝如来や十方の諸仏も不実の証明をしたことになります。また経文が真実であるならば、両火房に帰依する国主は、現世においては守護の善神に捨てられて国は他国のものとなり、後生においては阿鼻地獄に堕ちることは疑いありません。にもかかわらず国主が両火房らの大悪法を崇めている故に、理不尽な政道がまかり通っているのです。

文中、特に「今の人人は人毎とに経文を我もよむ・我も信じたりといふ、只にくむところは日蓮計なり」には注目です。

今の世の人々は、誰も彼もが

「私も経文を読んでいます」

「私も信仰をしています」

と口では言うが、最第一の法華経信仰と経文を説く日蓮のことになると憎みだすのである。

諸宗教の人々は法華経最第一、唱題成仏を説く大聖人に対して、

「日蓮をなんとかしろ」

「日蓮を黙らせろ」

「日蓮がなんだというのか」

等と罵ったのでしょう。

佐渡御書に「日蓮御房は師匠にておはせども余にこはし、我等はやはらかに法華経を弘むべし」と記されていることからすれば、批判する諸宗の人々に付和雷同する日蓮門下もいたことでしょう。

続けて大聖人は指弾します。

経文を信ずるならば慥にのせたる強敵を取出して経文を信じてよむしるしとせよ

法華経を信じるのなら、そこに説かれている強敵である僣聖増上慢が現実には誰であるかを明確にして(大聖人の時代は極楽寺良観)、それによりあなたの信仰を証明しなさい。

法華経の行者あれば、必ずや三類の強敵も出現。

三類の強敵なければ法華経の行者なし。そこにいるのは大聖人以前の、天台の持経者に等しい。

誰が法華経の行者なのか。

誰が三類の強敵、なかんずく僣聖増上慢なのか。

法を説きながら実践する人、その人を貶めさらし、罵る人。

これらを明確にして初めて、大聖人に連なる信仰が証明される。それなくしては、法華経の行者ではなく法華経の読者というべきだろう。

と学習します。

法華経の行者と僣聖増上慢。

最もこだわり、これでもかと訴えたのが日蓮大聖人。

『こだわり考えるべきはこの一点だよ』

大聖人が御書を通して、現代の私達に語り続けているように思います。