特大の曼荼羅をめぐって~二十八(九)紙大漫荼羅

日蓮大聖人が数多く顕した曼荼羅本尊の中でも特大なのが、静岡県沼津市の岡宮光長寺に所蔵される「弘安元年太才戊寅十一月廿一日」顕示、「優婆塞藤太夫日長」授与の曼荼羅(御本尊集57)です。寸法は「縦234.9㎝×横124.9㎝」もあり、大小の紙が28枚継ぎとされてきましたが、原井慈鳳氏の論考「二十八紙大漫荼羅に関する研究(一)」(桂林学叢 第二十七号 平成二十八年)では29枚継ぎであることが解明されていますので、現在では「二十九枚継曼荼羅」と呼ぶべきでしょうか。

「甲州南津留郡小立村妙法寺に護持せられたもので、同村の渡辺藤太夫に授与したまうところ」の曼荼羅にして、後に岡宮光長寺に納められたと伝承されていますが、大きな持仏堂を擁する在地の有力者が法華経を受持し、その邸宅が地域の弟子檀越等、大人数が集う法華伝道の道場となり、このような大型の曼荼羅が授与されたのでしょう。弘安年間に至る日蓮一門の教線拡大を示しているように思います。

また、弘安元年11月21日といえば、あの建治年間末から弘安初期にかけての大疫病が山を越えた頃でもあります。多くの人々が亡くなり、自らもいつ感染してしまうかもしれない恐怖と不安の日々。妙法を信受し、それらを乗り越えて生きていることを実感する人々の喜びはいかほどのものだったか。そのような一門のこころと祈りの結晶が、大きな曼荼羅として顕されたように思います。

二十八(九)紙大漫荼羅の次に大きな曼荼羅は、静岡県三島市玉沢の妙法華寺に伝来する通称・伝法御本尊(御本尊集101)です。「弘安三年太才庚辰十一月 日」の顕示、「釈子日昭伝 之」の授与書きがあり、寸法は「197.6×108.8㎝」で12枚継ぎ。

三番目が千葉県松戸市平賀の本土寺にある「二十枚継曼荼羅」(御本尊集18)で「189.4×112.1cm」の寸法、紙が20枚継がれています。顕示年月日は記されていませんが、文永11年5月24日の「法華取要抄」との関連から、文永11年頃に顕されたのではないかと推測されています。

素朴な疑問として、「日蓮大聖人はどのようにして、これら大きな紙に御本尊を顕したのだろうか?」というものがありますが、原井慈鳳氏は前出論考中で、『日本には古来、大画面を描く絵師が絵画製作時に用いた裁物板にも似た「糊板(のりいた)」(乗板)と称する用具がある。これを応用すれば疑問は解けよう。筆者はその状態を図試してみた』として、図面により大聖人が御本尊を顕す様子を示されています。

「二十九枚継曼荼羅」を拝した人によると、あまりに大きすぎて本堂に奉掲しきれず、曼荼羅下部は巻いたままであったそうです。「伝法御本尊」と「二十枚継曼荼羅」は私も拝しましたが、学的に究明したいことがあっても首題と日蓮花押を見た瞬間にどこかに飛んで行ってしまうといいましょうか。背筋が熱くなる衝撃と共に、『大聖人が直接顕した御本尊は「日蓮が魂」と向かい合う信仰と覚悟なくして拝せる御本尊ではない』、ということを実感いたしました。

それは保田妙本寺に所蔵される「文永十一年太才甲戌十二月 日」顕示、通称・万年救護本尊(御本尊集16)を拝した時も同じで、『妙法に照らされてしまい自分が省みられる時にして、妙法に包まれた温かみを感ずる時』であったように思います。

ところで何故、日蓮大聖人は曼荼羅を図顕したのでしょうか?

当然、唱題成仏の祈りの対象、法華弘通等の正論が思い浮かびまずか、私としては『日蓮亡き後の日蓮を一閻浮提第一の大御本尊として顕すことにより、末法万年の衆生救済を現実に成さんとした。その心のかたちが曼荼羅である』ように思います。

それは末法の世における、『我も亦為れ世の父 諸の苦患を救う者なり』(法華経如来寿量品第十六)である当体にして、『我常に此の娑婆世界に在って説法教化』する仏のすがたを示すものではないでしょうか。