「仏弟子等必ず仏法を破るべし」をめぐって
日蓮大聖人の訴え
『聖職者・宗教者にして、師匠の弟子こそが仏法を破るのだ』
しかも必ずなのです。
そこには、「何故なのか?何時なのかを考えなさい」という意も込められているように思います。
佐渡御書
外道悪人は如来の正法を破りがたし、仏弟子等必ず仏法を破るべし。師子身中の虫の師子を食等云云。
「聖職者・宗教者、師匠の弟子こそが必ず仏法を破る」という言葉は重い。
例えば、「法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる」(妙一尼御前御消息)という有名な言葉がありますが、いったい、どれだけの方がこの言葉に奮い立ったことでしょう。
「冬の次はまあ、春かな」という半端な思いではなく、「日蓮大聖人が必ずというからには、そうなるんだ、よし、確信ある祈りだ」と、朗々と題目を唱え桜梅桃李の体験が咲いてきたのです。
文字通り、必ずは「必ず」です。
「いや、仏弟子が仏法を破るというのは、日蓮大聖人の時代の他宗教の僧侶に向けた指摘で」という向きもあるでしょうが、大聖人が他宗に向けて放った指摘、破折を、師の滅後では日蓮系教団が使用して、他の日蓮系教団を批判してきた歴史を忘れてはいけません。
「鎌倉時代の他宗教だけではない。現代では、あの誤れる、日蓮系教団にも当てはまるのだ」とやってきたわけであり、いわば当然のルールでもあったのですから。「その御書はよそには当てはまるけど、うちは圏外だよ」等というならば、それこそ仏弟子が仏法を破っている姿そのものといえるでしょう。
では、仏弟子はどのようにして仏法を破るのか?
その答えの一つが「日蓮聖人の法門は天台宗なり」(富士一跡門徒存知の事)と、師匠が最晩年に最も破折した台密・天台宗を、こともあろうに師の宗派にしてしまった一弟子たちの信仰にあると思います。まさに、師匠の直弟子が真っ先に「仏弟子等必ず仏法を破るべし」の姿となっているのですから、「大聖人の破折は念仏、禅、真言等の他宗教だけに向けたもの」という解釈は、滅後程なくして成り立たなくなっているといえるでしょう。