私論「折伏について」(8)

投稿者:鬼滅の言

我が父母を人の殺さんに父母につげざるべしや、悪子の酔狂して父母を殺すをせいせざるべしや、悪人・寺塔に火を放たんにせいせざるべしや、一子の重病を炙せざるべしや、日本の禅と念仏者とを・みて制せざる者は・かくのごとし

開目抄下 御書p.237

価値論は折伏の武器であったが。入信決意に至らせるまでは、しばしば難渋した。そこで牧口先生は、網に魚を追い込んでも、網の尻が抜けていては逃げられてしまう。網の尻をふさいでおこう、といわれた。そうして言われたのが、有名な「よいことをしないのと、悪いことをするのとは結果において同じか違うか」だった。不善は悪であることを前もって相手に確認させ、しかるのちに大聖人の仏法が最高の教えであることを説くのである。それから急に折伏ができるようになった。その矢先に、牧口先生は軍部権力によって逮捕された。しかし、いささかも信念を曲げず、死身弘法の信仰を貫き通された。牢の中でも、時折周囲に呼びかけて「皆さん、問答しませんか。いいことをしないのと、悪いことをするのは同じですか、違いますか」と、堂々と折伏されたと伺っている。

「教学随想 代々の会長とともに」 小泉隆 (講座 教学研究7)

今回は「不善は悪である」との観点から折伏を考えてみます。

簡単に解釈します。

わが父母を、人が殺そうとしている、それを父母に告げない人がいるだろうか?

悪子が酔狂して、父母を殺そうとするのを止めない人がいるだろうか?

悪人が寺塔に放火するのを止めない人がいるだろうか?

重病の子どもが嫌がるからといって治療を受けさせない親がいるだろうか?

「日本の禅と念仏者とを・みて制せざる者は・かくのごとし」禅宗や念仏等の謗法の者を見て止めさせない人は、悪人が寺塔に放火するのを止めない人と同じであると日蓮大聖人は説いています。

牧口先生は「善いことをしない、それは悪いことをするのと同じである」との価値観に基づいて折伏を展開されました。

苦悩にあえぐ人々を救っていかない、つまり折伏をしない人は「善いことをしない」人であり、それは悪いことをするのと同じ人であるということです。
故に私たちは折伏をしなければならないのです。

次回は「如我等無異」の観点から折伏を考えたいと思います。