佐渡で日蓮大聖人を守った人々をめぐって

時にあたって人物が現れる、出会うというのはまことに妙なるものがあります。

思えば日蓮大聖人の佐渡配流。

失(とが)なき人が流罪に処せられるという理不尽なる仕打ち。しかしながら、「何れの経をも行ぜよ、仏法を行ずるには分分に随って留難あるべし。其の中に法華経を行ずるには強盛にさうべし、法華経ををし(教)への如く時機に当って行ずるには殊に難あるべし」(種種御振舞御書)ですので、これも「その人が法華経の行者たるの証明」であり、また「その人物の偉大さ」に比例したものといえるでしょう。

と同時に、いのちの強さと声の響きに応ずるが如しです。そこには諸天の守護が必ずや働きます。

然る間釈迦・多宝等の十方無量の仏・上行地涌等の菩薩も普賢・文殊等の迹化の大士も舎利弗等の諸大声聞も大梵天王・日月等の明主諸天も八部王も十羅刹女等も日本国中の大小の諸神も、総じて此の法華経を強く信じまいらせて余念なく一筋に信仰する者をば影の身にそふが如く守らせ給ひ候なり

上野殿御消息

南無妙法蓮華経と申さば必ず守護し給うべし

祈祷抄

思えば阿仏房・千日尼、国府入道、そして念仏は捨て切れませんでしたが大聖人の身を守った一谷入道等、これらの人達は「日蓮、その人の来島」を待っていたかの如く、佐渡の大地から涌き出でて「日蓮が一門」に連なったのです。

まさに、「是の諸の菩薩、釈迦牟尼仏の所説の音声を聞いて下より発来せり」(法華経従地涌出品第十五)が現実に顕れた姿、働きではなかったでしょうか。佐渡で大聖人に連なりし人々は、身なりはともかく、その内面は「一一の菩薩皆是れ大衆唱導の首なり」(同)であったように思うのです。

・阿仏房夫妻

「千日尼御前御返事」

地頭地頭・念仏者念仏者等、日蓮が庵室に昼夜に立ちそいて、かよう人もあるをまどわさんとせめしに、阿仏房にひつをしおわせ夜中に度度御わたりありし事、いつの世にかわすらむ。只悲母の佐渡の国に生れかわりて有るか。

・一谷入道

「千日尼御前御返事」

(一谷)入道の堂(一谷入道の阿弥陀堂)のらう(廊)にて、いのち(命)をたびたびたすけられたりし事こそいかにすべしともをぼへ候はね(命を度々助けてくれた御恩には、いかにして報いればよいのでしょうか)

・国府入道夫妻

「国府尼御前御書」

しかるに尼ごぜん並びに入道殿は彼の国に有る時は人めををそれて夜中に食ををくり、或る時は国のせめをもはばからず身にもかわらんとせし人人なり。

ことを進めれば向かい風は強くなるも、変化の人(法師品第十)が来たって守護の働きをなす。前へ向かうほどに「下より発来せり」の「大衆唱導の首」が現れ続く。

更に逆風が強まっても、それは「薪の火を熾にし、風の求羅を益すが如き」(種種御振舞御書)ものである。

足を止める理由はどこにもありませんね。

                         林 信男