私論「折伏について」(7)

投稿者:鬼滅の言

問うて云く念仏者・禅宗等を責めて彼等に・あだまれたる・いかなる利益かあるや
答えて云く涅槃経に云く「若し善比丘法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり」等云云
「仏法を壊乱するは仏法中の怨なり慈無くして詐り親しむは是れ彼が怨なり能く糾治せんは是れ護法の声聞真の我が弟子なり彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり能く呵責する者は是れ我が弟子駈遣せざらん者は仏法中の怨なり」等云云。

開目抄下 御書p.236

今回は慈悲の観点から折伏について考えてみます。

開目抄の「折伏を行ずる功徳」の章では、念仏者や禅宗等を責めても、彼らに怨まれ恨まれるだけである。そのような折伏の実践に何か意味があるのか?何か得になるのか?との問いに対し日蓮大聖人は、涅槃経の文・章安大師の言葉を引用して答えています。簡単に解釈します。

涅槃経には「謗法の者に対して見て見ぬふりをしてはならない、傍観者であってはならない、謗法を責める者、それが我が弟子である」とあります。
章安大師の涅槃経の疏では「相手の悪を知りながら、それを責める慈悲もなく、詐り親しむ者は相手にとって怨である。相手のために悪を除く、それが親の徳である」と説いています。

「慈無くして詐り親しむは是れ彼が怨なり」
「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」

折伏は慈悲の行為である。それが大聖人の答えであると思います。

いはずば・慈悲なきに・にたり

開目抄上 御書p.200

折伏をしないのは無慈悲なのです。

次回は「不善は悪である」との観点から折伏について考えたいと思います。