私論「転重軽受」(3)

投稿者:鬼滅の言

般泥洹経に云く「善男子過去に曾て無量の諸罪種種の悪業を作るに是の諸の罪報は或は軽易せられ(中略)及び余の種種の人間の苦報あらん現世に軽く受るは斯れ護法の功徳力に由るが故なり」

開目抄下 御書p.232

生死を離るる時は必ず此の重罪をけしはてて出離すべし(中略)権経を行ぜしには此の重罪いまだ・をこらず鉄を熱にいたう・きたわざればきず隠れてみえず、度度せむれば・きずあらはる、麻子を・しぼるに・つよくせめざれば油少きがごとし、今ま日蓮・強盛に国土の謗法を責むれば此の大難の来るは過去の重罪の今生の護法に招き出だせるなるべし   

開目抄下 御書p.233

開目抄を参考に護法の功徳力について考えてみます。

少し区切って解釈します。

(1)生死の苦しみを離れる時は、必ず過去世の重罪を消滅させて、解脱するのである。

(2)権経の修行では、過去世の重罪を顕し消滅させることはできない。故に大難も起こらないのである。

(3)例えば鉄を焼く場合、強く鍛えなければ、その傷は隠れて見えない。しかし、たびたび鍛えるならば、その傷があらわれてくる。同様に権経の修行では過去世の重罪は隠れて見えないのである。

(4)例えば、麻の実をしぼって油を取る場合、強くしぼらなければ油が少ないのと同じである。同様に権経の修行では過去世の重罪をしぼり出すことはできないのである。

(5)日蓮大聖人は強盛に国土の謗法を責めるが故に大難が来るのであり、それは護法の功徳によって過去の重罪を招き出したからである。

「宿業はかりがたし」(御書p.958)とは佐渡御書の一節です。

この想像も及ばない過去世の罪業について大聖人は、権経の修行では顕すことは不可能であり、今世で消滅させることはできないとされ、法華経の実践により過去世の重罪を顕し、難を受けることによって今世で一気に消滅させる。
それが護法の功徳であると説かれています。

私たちが「軽く受けてよかった」とする転重軽受の捉え方は、般泥洹経の法理であると思います。

それに対し大聖人は「現世に軽く受る」とはひとことも説いていないのです。

「過去世の罪業を消滅させることができたならば軽くなるではないか!」

大聖人はそのように仰せられている!と私には思えるのです。