天台沙門から天台批判へ

日蓮大聖人の諸宗批判として注目すべきは、文永11年(1274)11月20日の「曾谷入道殿御書」より公に天台(台密)批判を始めたということです。

天台沙門として立正安国論を以て北条時頼を諫めた当の本人が、14年後に(今日の言葉でいえば)凄まじいまでの手のひら返しを始めるのです。

「曾谷入道殿御書」を著した時の認識では、10月の蒙古襲来(文永の役)を受けて次なる侵攻も必定であり、そのときは自身の身も危ういと感じていたのでしょう。「最後なれば申すなり。恨み給ふべからず」と遺言の如く認めた書に慈覚大師円仁を名指しして、「大日経・金剛頂経・蘇悉地経を鎮護国家の三部と」して、「伝教大師の鎮護国家」の法を破壊した。「叡山に悪義出来して終に王法」が尽きた、円仁の「悪義鎌倉に下って又日本国を亡ぼ」そうとしていると痛烈に批判。

亡国が眼前となり、自身と檀越の存在も覚悟を要する時に至って、青年期に学び、それまでは一定の配慮、評価、期待もしていた比叡山・台密に対する批判を展開していくのです。

続いて、「弘法大師の邪義は中々顕然」空海による東密の邪義は明らかなので「人もたぼらかされぬ者もあり」と誑惑される人も少ないが、「慈覚大師の法華経・大日経等の理同事勝の釈は智人既に許しぬ。愚者争(いか)でか信ぜざるべき」と、円仁の大日勝法華劣の教判、理同事勝は智有る学匠ですらも誑惑されるものだったので多くの人は円仁の教えを深く信じ込んでいると書いたのは、台密批判が最終段階に至って行われるようになった、一つの背景ともいうべきものでしょうか。

これ以降は、「悪象・悪馬・悪牛・悪狗・毒蛇」よりも百千万億倍恐怖すべき悪として(富木殿御書)真言と並んで天台が徹底して破折・批判されていくのです。

大聖人滅後、一弟子六人の中で、このような天台批判を継承したのが富士川流域の天台寺院と相対する妙法弘通を展開した日興上人ただ一人でした。

日興上人の晩年の「遺告」では、「天台沙門と仰せらる申状は大謗法の事」「何ぞ日蓮聖人の弟子となって拙くも天台の沙門と号せんや」「しかればすなはち日蓮聖人の御弟子は天台と云ふ字をば禁ずべきものなり」とまで指弾するのです。

天台沙門の「立正安国論」提出、当の本人による天台宗破折、弟子の天台寺院と信仰圏での妙法弘通、天台沙門と名乗った一弟子五人、天台の文字すら禁じた一人の弟子。

この物語、展開こそ、じっくりと読み解く過程で、今日的な教訓が多々得られると思うのです。

林 信男