安房小湊で人間日蓮を思う

本尊問答抄

日蓮は東海道十五箇国の内、第十二に相当たる安房国長狹郡東条郷片海の海人が子なり

今、安房小湊の内浦湾を望む高台に立つと、眼下に茫々たる太平洋の大海原を眺め、凛とした空気の中にもきらめく陽光に包まれて早、春の到来を思い、心広々と和やかになってまいります。この地が暖地に自生する落葉喬木、「まるばちしゃの木(なんじゃもんじゃの木)」北限であることも肯ける穏やかな空気であり、のんびりとした農漁村は時間が止まったようなのどかさです。また、たおやかな山並みは海岸近くにまで迫り、「ぽつん」と開けた一角にある小湊を見ると、「随分と、こじんまりとした所だなあ」と誰しも実感することでしょう。

最近でこそ観光化されて旅館等が建ち並んでまいりましたが、それもごく僅か。昔からの農漁村を見ていますと、「その時代を思い出させてくれる」何かが眠っているように感じますし、一人海辺を歩いていると、波打ち際で無邪気に遊ぶ幼き日の「その人の姿」が見えてくるような気もします・・・・。

いったい、誰が想像したでしょうか。このような小さな農漁村から、時の最高権力者を真っ向から諫暁し、仏教界を震撼させるような激しい大闘争の人物が登場することを。そして、その人物の「教え」が同時代のみならず、永遠に生き続ける「時代の灯明、希望の法」となるであろうことを。

思えば清澄寺の少年僧時代、「虚空蔵菩薩」に「日本第一の智者となし給え」と大願を立てた時に、彼のその後の「波瀾万丈」「日々、臨終覚悟の大闘争」の人生行路が運命づけられていたのでしょうか。

ただ、彼の「往来の範囲」は限られていました。当然のことながら、現代のような交通機関はその時代にはなく、唯一「己の足で歩く」これだけがありました。彼は燃えたぎる求道心のままに「己の足」だけを頼りに、修行の、研鑽の旅を続けました。

今日の私達から見れば、彼の往来した範囲というものは、まことに限られた狭いものだったといえるでしょう。しかし、その「限られた地理的条件の中」で、彼の思考は、同時代の一切衆生、一閻浮提までをも包み、更には不滅の輝きを放つ経典群を通して、時空間までを突き抜け、天地、自然、四季、全ての生命、宇宙法界と共にあり、遠き久遠の過去も、「その法の流通を待つ」末法万年の未来も、同時に「彼の一身」に存在していたとも思えてきます。

まことに「一人の人の持つ『人間の思考』というものは無限大」「一念は三千世界を包む」ものであると、彼の人生を知るほどに実感せずにはおられません。

彼曰く「三千大千世界の一切衆生は釈迦如来の子なり」と。(諌暁八幡抄)

「法」の真実に生きる人、「誠」を以て道の探求を続ける人には、いつの時代でも必ずや、そこに仏・菩薩の力有が働きます。彼が「出会える人々、拝しえる経典の分量という経験の限界」更に、「行動範囲という地理的条件の限界」を乗り越え、「末法の衆生を救済の彼岸へと導く法」を覚知し得たのは、「仏教の経典群」という、二千年以上も前の、釈尊に連なる叡智の人々の書き記した「膨大な文書」によって可能となったのでした。

「経典」・・・一口でいいますが、どんなに多くの人々の、不惜身命、身軽法重の修行、悟り、求道の旅、努力、信念、忍耐、汗、涙そして血によって綴られたものなのでしょうか。どれだけの人が、「経典」の為に、自身の胸中の弱さと戦い、地位も名誉も、妻子眷属の恩愛をも擲って、精進、修行、更には書写に明け暮れたことでしょうか。

まことに「偉大なる理想を掲げた大願の人」こそ、「偉大なる経典」をその胸中のものとするのにふさわしかったのです。

後世の人から「仏教」と称された、その開祖・釈尊に連なる覚者・求道者達の全てを、生命を注ぎ込んだ「叡智の結晶」ともいうべき「経典群」を、彼は自身の生命に刻印いたしました。それにより、当時の仏教界にあって「人々から聖人・導師・尊師と仰がれた」高僧達が頭で読めども身読できなかった「法華経最第一」を身読し、それを闇深き、末法の衆生の苦悩を照らす「日月、光明」とし、その流布の為に「殉教」の道をひたすらに突き進むことにより、「尽未来際への範」を示し抜いたのでした。

人間・日蓮・・・偉大なる彼は、今も、これからも、その時代の多くの人々の心に、永遠に生き続けていきます。そして、彼の人生行路に学ぶ時、「決意した、その時から、新しい自分となり、新しい人生が始まる」ということを知るのです。

                                     林 信男