池田先生と私

私は、昭和39年に、学会員の両親の元に2世として生まれました。

父は、当時小松製作所の下請け事業を、自営でやっておりましたので、わりと恵まれた家庭だったはずなんですが、信心強情だった母に比べ、山っ気が多く、どちらかというと派手な生活が好きな父親は、稼いだ金をあまり家に入れず、そんな父に、母はいつも苦労していたようです。苦労の多かった母ですが、私たち四人の子供にはいつもやさしく、夜寝るときには、必ずと言っていいほど、池田先生という人の話をしていました。その話になると、本当に嬉しそうに語る母を見て、仏壇の横に飾った写真でしか見たことの無いその人が、いつも母を元気にしてくれるんだと思い、私もその池田先生という人が好きになりました。

小学校2年の時、池田先生が私たち少年部の為に書いてくださったという「大いなる希望」という詩を教わりました。当時、部員会に集う子供達は全員暗記するまで読みました。私も、母に褒められたい一心で、一生懸命暗唱しました。

「失敗もよし 苦しみも 悩みも 喜びも 希望も  すべて未来のための財産だ

どんなことがあっても くじけてはならない 退いてはならない。

諸君が進む大道は たとえ誰人が見ずとも

未曾有の栄光の花道であることを 僕は確信したい

君たちよ 大木となれ 力と福運の葉を茂らせよ

勝利の花を爛漫と咲かせ 実を結べ

僕は 根っこになる 根は見えない 見えなくてもよいのだ

君たちよ 壮大な大殿堂をつくりゆけ

この詩を何度も読み、暗唱したとき、子供ながらに何とも言えない安心感と、わくわくするような気持ちになったのを、今でも覚えています。それまで、母からら聞くだけだった池田先生が、直接自分とつながった気がして、突然身近な存在に感じられました。

特に、「僕は 根っこになる 根は見えない 見えなくてもよいのだ」との一節に、深い意味もわからないまま感動し、「先生が根っこなら、オレも根っこがいいな」と、子供心に思ったものです。

しかしその後、先生のお言葉の通り、苦しみや悩みが、嵐のように我が家を襲いました。 

オイルショックのあおりで、父の事業も仕事がなくなりました。父は会社を手放した上、色々な投機事業に手を出して、ことごとく失敗し、ついに借金だけが残ってしまいました。

更にその直後、その父が脳血栓で倒れ、一命はとりとめましたが、働けなくなった父と、四人の子供を食わせる為に、母は一人で昼も夜も働きに出るようになりました。中学二年の時でした。あの明るかった母が、日に日に無口になるのがわかりました。

長男の兄は、そんな状況を嫌って家に帰らなくなり、私が二人の弟たちの食事を作ったり、家事をしなければならなくなりました。、そのため、働けなくなって家にいる父を恨むようになっていましたが、そんな時、男子部のお兄さんが、一枚の色紙を持って、私を訪ねてきました。渡されたその色紙には、

「君よ!君は限りなき創造の世界の王子。どんなにきりたった岩に行き逢っても、挫折などと言う言葉で、甘美に自分を慰めてはならない」

そう書いてありました。すぐに池田先生の詩だとわかりました。あの「大いなる希望」と一緒につづられた、「少年」という詩の一節でした。

「そうだ、俺は先生に期待された王子だ、不幸な自分を慰めてどうする」

そんな、負けじ魂が胸にわいてくるのを覚えました。

そして、弟たちの面倒を見ながら、なんとか高校に入りましたが、家計が大変なのは誰よりもわかっていましたので、母に負担をかけまいと、担任の先生に相談して、奨学金を借り、通学の交通費を稼ぐためにレストランでアルバイトもしまくりました。おかげで、家事や料理が得意になりました。

そんな高校2年の2月、本当に寒い日でした。いつも仕事で子供たちの面倒が見れない母が、弟の学習発表会だけは出たいと、時間を作って学校へ出かけましたが、その帰り、学校の校庭で倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。くも膜下出血でした。過労がたたったのだと思います。地獄の底に落とされる思いがしました。目の前が真っ暗になる気がしました。

ところが、普段は忘れているのに、その時も又、先生の詩が頭に浮かんでくるんです。

「どんなことがあっても くじけてはならない 退いてはならない。」

大いなる希望の一節です。涙は止まらないんですが、不思議と、「きっと大丈夫だ」という気持ちが心のどっかにあるのを感じました。「くじけてはならない」なんて、誰でもいう言葉なのに、先生の言葉だと、全然ちがって響くんです。

その日から私は、一家の大黒柱として、弟たちや父の面倒をみながら、無事に高校を卒業しました。卒業後は、高校の先生の勧めで、東京の日野自動車に入社が内定していましたが、今自分がこの家を出てしまったら、残された父や弟が苦労することは目に見えていましたので、私は、折角の先生の勧めを断り、地元の小さな自動車修理工場に就職しました。

 その後は、男子部としての戦いが始まりました。高校時代から男子部に混ざって、県の青年部総会の組体操にも参加していましたので、いつ男子部になったのかはっきりしないほど溶け込んでいました。県の第一回青年平和文化祭では、やはり組体操の一員として、先生にお会いすることが出来ました、お会いしたと言っても、遠くからお姿が見えた程度ですし、終了後のスピーチの時も、会場の外に出されていましたので、お会いしたなどとは言えないのかもしれませんが、「僕は 根っこになる 根は見えない 見えなくてもよいのだ」との心で先生とつながっているんだという確信がありましたので、同じ場所で、同じ空気をすっているだけで、私は幸せでした。翌日、その時の先生の指導が伝えられ、

「信仰と言っても、日々御本尊を拝し唱題しながら、良い市民、良い社会人として、地域に社会に貢献していく人、その人が広布の人材だ!」

とのご指導を聞き、一人で泣きました。

こうして、気が付くと、男子部としては、第二総県の副書記長までやらせていただきました。

そんな私が「これだ!これこそが自分の使命だ」と初めて強く感じたのが日顕宗や、顕正会との闘いでした。学会を敵視して狙っている獣の様な奴らから、まじめな学会の会員さんを守るため、自分にできることは何でもやろう決意致しました。それが先生にお答えすることだと思いました。

狙われたのは、中々活動の出来なかった部員さんや、以前は頑張って来たけれども活動できなくなってしまったお年寄り。家族の反対で思うように活動ができない会員さんなどでした。ですからどこかで「顕正会が来た」と聞くと、なりふり構わずどこでも飛んでいきました。

ところが、ここで面白い反応が起こります。法華講や顕正会が来たと聞いて、現場へ駆けつけ、こらしめると、現場の会員さんからは喜ばれ、感謝されるんですが、その後、必ずと言っていいほど、幹部から連絡が入り、「勝手に動くな!」とか、「地元の幹部の許可を得ていけ!」などと云ったクレームが来るのです。事情が分からず、お伺いした地元の方たちに聞くと、

「その幹部にいくら言っても来てくれないから、久保田さんに連絡したんです」とか、

「地元幹部に連絡しても、警察に言え、とか、追い返せというばかりで、何もしてくれない。そのうえ、法華講員からは、逃げるのか、話もできないのか、と、捨てゼリフをはかれ、悔しくてしかたありません」等と話されます。

私は気が付きました。「ははー、これは臆病風に吹かれた幹部が、臆病を隠して自分の立場を守るために、建前論を振りかざして、戦う人間を煙たがっているんだ」と。不思議なことに、敵と戦えば戦うほど、口先ばかりの幹部の実態が見えてくるのでした。それでも私は意に介さず、また何と言われようと、困っている会員さんを守ること、敵と前線で戦うことが、池田先生に応えることだとの信念は曲げませんでした。案の定、幹部からは「久保田は危険人物だ」とのレッテルを貼られ、やがて壮年部送りとなりました。

振り返ってみると、私が直接池田先生にお会いできたのは、文化祭と本部幹部会だけです。

それも、いつも遠くからお姿を拝見するだけです。

でも、私の一番近くである私の心には、いつも池田先生がいらっしゃいます。この心の先生がいつも私の人生を支えてくださいました。本部の職員や、大幹部の方々の中には、何度も直接池田先生にお会いした人もいるでしょう。しかし、本当に大切なのは、「永遠に広布の指揮を執る」と仰った先生の、御心に近づくことであり、物理的な距離や頻度ではないと思うのです。実際、先生と何度もお会いしながら、先生を裏切った幹部が何人もおりました。

最近でも、聖教新聞社の編集局長にまでなり、「俺は百何十回、池田先生と直接話をしている、、、、」といばりくさって子分を集め、パワハラの限りを尽くした副会長がおりました。これが、当時まだお元気に指揮を執られていた先生のお耳に入り、本幹の席上、「だれがこんな男を偉くしたんだ、除名にできないのか!」と、それはそれはお怒りであったとのこと。その男は聖教を追われましたが、その左遷先を聞かれた先生はその時も、「もっと遠くへ飛ばせなかったのか!」と本当にお怒りであったと聞きました。

最近の様子を見ても、先生がご不在になってからは、わけのわからない教義改定や、権力固めとしか思えない会憲の制定、病気でもない正木理事長が更迭され、高齢の長谷川氏が理事長に就くなど、とても先生の御心とは思えない施作がなされています。また、大御本尊は認定しないなどと宣言しておきながら、経本の観念文は従来のまま一年間もほったらかし、極めつけは「本部に従わないものは出ていけ、1割ぐらいいなくなってもいいんだ!」などと、会員を馬鹿にする傲慢な発言。

公明党に至っては、集団的自衛権問題を皮切りに、安保法制問題、憲法改正など、とても平和の党とは思えない政策に加担し、あげく、成長の家を母体とする日本会議と仲良く歩調をあわせ、連立政権にしがみつくことだけを目的に、会員を選挙に駆り立てている。これが本当に先生の創価学会か、先生が作られた公明党か、と目を覆いたくなる現状があります、これに少しでも異議を唱え、意見をすれば「反逆者」だとレッテルを貼って処分する。本当にこのままでよいのでしょうか。それでも従うのが正しいのでしょうか。絶対にいいわけがありません!

ここに、かつて大白蓮華の年頭所感に寄せられた池田先生のご指導を紹介します。

「これからは、総体革命を進めていくという観点からも、政治の分野に偏重する行き方であってはなりません。公明党がその分野で第三党になったと同じく、婦人運動として主婦同盟、学生運動として新学同、教育の分野では創価大学、創価学園、創価女子短大等、また、大衆の音楽運動として民音等々が、それぞれの世界で第三勢力として発展していくことが望まれます。

ただし、それぞれの組織運営の原則は、民主的方法にのっとって行なわれるべきであり、あくまで民衆の側に立ち、民衆のために新しい文化の建設を目指していくのだという大目的を忘れてはならない。理想を忘れ、民衆から遊離し、醜い内紛におおわれたときには、もはや存在する価値なしとして、即時に解散すべきであると考えます。」

 これが私が知っている池田先生のこころです。

このように、先生のご指導はいつも明快で分かりやすいものです。最高幹部たちは、都合のいい複雑な理屈をつけて、自分たちを正当化しようとしますが、こんなことを許していれば、先生が命をかけて築かれた平和の砦、民衆の砦は、いつか烏合の衆となり、権力者の思いのままに使われてしまいます。

幼いころから今日まで、私の体にしみついた池田先生の心とは、

「一人を大切に」

「弱い立場の人の味方であれ」

「悪を許すな」

「一人立て」

「平和を守れ」

「絶対にくじけるな」

という、率直でまざりけのないシンプルなものです。

単純だと言われようと、池田教だと言われようと、組織に反すると言われようと、

私は、生涯これを貫くつもりです。

最後に、「大いなる希望」の一節、

「君たちは 必ず 僕の望みをかなえてくれるだろう。

どこまでも「平和」の二字を貫いていってくれたまえ」

との先生の思いを、いま一度心に刻んで頑張ってまいります。

                                     久保田 哲