佐渡期の外部批判(5)・私論
投稿者:鬼滅の言
或る人云く勧持品の如きは深位の菩薩の義なり安楽行品に違すと
寺泊御書御書p.953
勧持品の折伏行は深位の菩薩の修行であり、初心の行者である日蓮は安楽行品の摂受の修行をすべきである。その批判に日蓮大聖人はどう答えられたのか?
摂受・折伏の問題は佐渡期の重要なテーマです。御書では「転重軽受法門」「開目抄」「佐渡御書」「富木殿御返事」「観心本尊抄」「如説修行抄」等で答えられています。
その御文と意訳です。時系列に並べてみますので、参考にしてください。
【文永8年10月 転重軽受法門】
御書p.1,000
付法蔵の二十五人は仏をのぞきたてまつりては皆仏のかねて記しをき給える権者なり、其の中に第十四の提婆菩薩は外道にころされ第二十五師子尊者は檀弥栗王に頸を刎られ其の外仏陀密多竜樹菩薩なんども多くの難にあへり、又難なくして王法に御帰依いみじくて法をひろめたる人も候、これは世に悪国善国有り法に摂受折伏あるゆへかとみへはんべる
付法蔵の25人は仏を除いては皆、仏が前もって記されていた化身の者である。その中に第14の提婆菩薩は外道に殺され、第25師子尊者は檀弥栗王に頚を刎ねられたのである。その他、仏陀密多や竜樹菩薩なども多くの難にあった。また難がなく国王の帰依が厚くて法を弘めた人もいた。これは世に悪国と善国があり、法に摂受と折伏がある故かと考えられるのである。(意訳)
【文永9年2月 開目抄】
御書p.235
夫れ摂受・折伏と申す法門は水火のごとし火は水をいとう水は火をにくむ、摂受の者は折伏をわらう折伏の者は摂受をかなしむ、無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし、譬へば熱き時に寒水を用い寒き時に火をこのむがごとし、草木は日輪の眷属・寒月に苦をう諸水は月輪の所従・熱時に本性を失う、末法に摂受・折伏あるべし所謂悪国・破法の両国あるべきゆへなり、日本国の当世は悪国か破法の国かと・しるべし
摂受と折伏という法門は水と火のようなものである、火は水をいとい、水は火を憎んでいる。摂受の者は折伏する者を笑う。折伏の者は摂受の修行を悲しく思う。無智・悪人が国土に充満する時は、摂受を前に立てて法を弘める。安楽行品の教えがこれである。邪智・謗法の者の多い時は、折伏を前に立てるのである。常不軽品の教えである。たとえば熱い時に冷たい水を用い、寒い時に火を好むようなものである。草木は日輪の眷属であり、寒い冬には苦しみをえるのである。水は月輪の所従であり、熱い時にその本性を失なってしまう。末法にもまた摂受と折伏の修行がある。それは国に悪国と破法の国があるからである。日本国の当世は悪国か破法の国かを知るべきである。(意訳)
問うて云く摂受の時・折伏を行ずると折伏の時・摂受を行ずると利益あるべしや(中略)
御書p.235
章安の云く「取捨宜きを得て一向にす可からず」等、天台云く「時に適う而已」等云云、譬へば秋の終りに種子を下し田畠をかえさんに稲米をうることかたし
摂受でなければならない時に折伏を行じ、折伏でなければならない時に摂受を行じて、利益があるのか?(中略)
章安大師は「摂受と折伏、その取捨選択は臨機応変にすべきで、一向にすべきではない」と説き。天台大師は「摂受か折伏かいずれを取るかは、時にかなうのみである」と説いている。例えば秋の終わりに種子を蒔いて田畠を耕しても、稲や米を得ることができないのである。(意訳)
【文永9年3月 佐渡御書】
御書p.957
仏法は摂受・折伏時によるべし譬ば世間の文・武二道の如しされば昔の大聖は時によりて法を行ず(中略)悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し、これおごれるにはあらず正法を惜む心の強盛なるべし
仏法で説かれる摂受と折伏は時によるべきである。たとえば、世間の文武の二道のようなものである。故に昔の聖人は時に応じて法を行じたのである(中略)悪王が正法を破壊する時、邪法の僧等が味方して、智者をなきものにしようとする時には、師子王のような心を持つ者が必ず仏になるのである。例えば日蓮のようにである。これは傲った気持ちではない。正法が滅することを惜しむ心が強情であるからである。(意訳)
【文永9年4月 富木殿御返事】
御書p.962
但生涯本より思い切て候今に飜返ること無く其の上又遺恨無し諸の悪人は又善知識なり、摂受・折伏の二義仏説に依る、敢て私曲に非ず万事霊山浄土を期す
ただ生涯は、もとより覚悟のうえである。今になって飜えることはない。そのうえまた遺恨もないのである。諸の悪人はまた善知識である。摂受・折伏の二義は、仏説によるのであり、自分勝手な論ではない。万事は霊山浄土を期してのことである。(意訳)
【文永10年4月 観心本尊抄】
御書p.254
当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す
この四菩薩は折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を責め誡しめ、摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持するのである。(意訳)
【文永10年5月 如説修行抄】
御書p.503
天台云く「法華折伏・破権門理」とまことに故あるかな、然るに摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば冬種子を下して春菓を求る者にあらずや、?の暁に鳴くは用なり宵に鳴くは物怪なり、権実雑乱の時法華経の御敵を責めずして山林に閉じ籠り摂受を修行せんは豈法華経修行の時を失う物怪にあらずや
天台大師が「法華は折伏にして、権門の理を破す」といっているのは、まことに意義あることである。従って摂受である四安楽の修行を、今の時に行ずるならば、それは冬に種子をまいて春に菓を取ろうとするような者ではないか。鷄が暁に鳴くのは当然のことであるが、宵に鳴くのは物怪である。権実雑乱の時、法華経の敵を責めず、山林にとじこもって摂受を修行する者のは、まさしく法華経修行の時を失った物怪ではないか。(意訳)
3番目の批判「或る人云く我も此の義を存すれども言わずと云云」(御書p. 953)につきましては次回考えたいと思います。