安房国清澄寺に関する一考 40
11 「名ばかり」の別当
【 別当御房御返事 】
清澄寺の別当職とはどのようなものだったのでしょうか。
ここで「別当御房御返事」(文永11年5、6月頃)を確認してみましょう。
本文
聖密房のふみにくはしくかきて候。よりあいてきかせ給ひ候へ。なに事も二間清澄の事をば聖密房に申しあわせさせ給ふべく候か。世間のり(理)をしりたる物に候へばかう申すに候。これへの別当なんどの事はゆめゆめをもはず候。いくらほどの事に候べき。但な(名)ばかりにてこそ候はめ。
又わせいつをの事、をそれ入って候。いくほどなき事に御心ぐるしく候らんと、かへりてなげき入って候へども、我恩をばしりたりけりと、しらせまいらせんために候。
大名を計るものは小耻にはぢずと申して、南無妙法蓮華経の七字を日本国にひろめ、震旦・高麗までも及ぶべきよしの大願をはらみ(懐)て、其願の満すべきしるしにや。大蒙古国の牒状しきりにありて、此国の人ごとの大なる歎きとみへ候。日蓮又先よりこの事をかんがへたり。閻浮第一の高名なり。
先きよりにくみぬるゆへに、まゝこ(継子)のかうみやう(功名)のやうにせん心とは用ひ候はねども、終に身のなげき極まり候時は辺執のものどもも一定とかへぬとみへて候。これほどの大事をはらみて候ものの、少事をあながちに申し候べきか。
但し東条、日蓮心ざす事は生処なり。日本国よりも大切にをもひ候。例せば漢王の沛郡ををもくをぼしめししがごとし。かれ生処なるゆへなり。聖智が跡の主となるをもんてしろしめせ。日本国の山寺の主ともなるべし。日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり。天のあたへ給ふべきことわりなるべし。
米一斗六升、あはの米二升、やき米はふくろへ。それのみならず人人の御心ざし申しつくしがたく候。これはいたみをもひ候。これより後は心ぐるしくをぼしめすべからず候。よく人人にしめすべからず候。よく人人にもつたへさせ給ひ候へ。
意訳
聖密房の文に詳しく書いておいた。寄り合って聞かれなさい。二間寺、清澄寺の事については、なに事も聖密房に相談していきなさい。聖密房は世間の道理を弁えた人物であるから、このようにいうのである。私が二間寺、清澄寺別当になるということは、夢にも思わないことだ。二間寺、清澄寺の別当など、どれほどのものだというのか。ただ名ばかりのものにすぎないではないか。
又、わせいつをの事については恐れ入っている(わせいつを=別当御房は「何か」を日蓮に授けたか、供養したか、渡したのではないか)。あなたが「わずかばかりの事で」と心苦しくされているのではないかと心配しているのだが、これも、私はあなたに恩があることを忘れてはいないので、そのことをあなたに知らせるためである。
大きな名声を期すものは小恥にとらわれたり、一憂することはないもので、南無妙法蓮華経の七字を日本国に弘め、震旦(中国)・高麗(朝鮮)までも弘法しようとの大願を抱いているが、その願いが満たされるべき兆候であろうか。蒙古から日本に対し、属国となるよう強く求めた牒状があって、日本国の人は皆、大いに嘆くような有り様となってしまった。
日蓮は立正安国論を以て国主を諌めて以来、他国侵逼難が起きることを考え続けていたのであり、実際にその難が起きようとしていることは閻浮第一の高名である。だが世の人々は日蓮を憎み続けてきたのだから、継子が功を遂げ名を挙げても継父や継母が無視するように、日本国の人々は用いようとはしないだろうが、ついに身の嘆きが極まる時には誤った教えに執着している者達も、必ずや心変わりをすることであろう。
今は蒙古襲来・他国侵逼難という日本の存亡がかかった重大事を抱えているのに、二間寺・清澄寺に関することなど、小さなことを云々している時ではない。
ただし東条郡は日蓮の生地であり、心に願うことは生まれた地のことで、日本国よりも大切に思っている。例えば、漢王の劉邦が沛郡(はいぐん)を手厚く保護し、大事にしたようなものである。沛郡は劉邦の生地であったからだ。
聖人・智人の跡は、主となることを以て知るべきである。(日蓮の学んだ)清澄寺が日本国の山寺の主となることだろう。日蓮は閻浮第一の法華経の行者である。これは天の与えられた理(ことわり)であろう。
米一斗(と)六升(しょう)、粟の米二升、焼き米は袋へ頂いた。それだけではなく、人々の御志は申し尽くし難いものがある。これには痛み入る思いである。これより後は、心苦しく思うことがあってはならない。人々にはお話されないように。(日蓮と別当御房の関係について、軽々に口外するな、という意味か)
よく人々には伝えていただきたい。(こちらは、清澄大衆、故郷の人々への挨拶の意か)
文永11年5・6月頃とされる「別当御房御返事」で、日蓮大聖人は「これへの別当なんどの事はゆめゆめをもはず候。いくらほどの事に候べき。但な(名)ばかりにてこそ候はめ。」と二間寺・清澄寺の別当に就くことを断わっており、それは「南無妙法蓮華経の七字を日本国にひろめ、震旦・高麗までも及ぶべきよしの大願」に生き、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」との境地からすれば当然のことだったでしょうが、二間寺・清澄寺別当について「いくらほどの事に候べき。但な(名)ばかりにてこそ候はめ」としていることに日蓮の時代、「二間寺・清澄寺別当の存在は名目上のものにすぎない」と認識されていたことがうかがわれます。
この時の日蓮大聖人の二間寺・清澄寺別当に対する認識には、法難を生き抜き配流地の佐渡からも生きて帰り、自らを一閻浮提第一の法華経の行者と位置付けた、大いなる内面世界・宗教的達成感と比較した時には、「二間寺・清澄寺別当など名ばかりのものにすぎない」とした側面もあると思われます。
しかし、当書の「但し東条、日蓮心ざす事は生処なり。日本国よりも大切にをもひ候。」や後年の故郷を思う述懐からして(※1)、少年・青年時代に学び、師僧と法兄のいる寺院の別当職を、自己の内面世界と比較相対して「一時的に過小に表現」したとも思えず、当書の記述には大聖人の時代の二間寺・清澄寺別当に対する「大方の認識」が含まれている、と理解してよいと考えるのです。
よって、天台・台密と真言・東密の大衆が同居した清澄寺の別当は「いかほどのこともない、ただ名ばかり」の存在で、「名ばかりの」別当であれば、別当職にある人物の宗旨がそのまま寺院の宗旨になったとは考えづらいのではないでしょうか。
二間寺・清澄寺別当職とは、いわば、名目上の別当がいればいいというだけの存在にすぎなかった、とうことになるでしょう。故に日蓮大聖人の時代からしばらくは、清澄寺別当個人の法脈=台密系か、東密系かを以て、清澄寺の宗旨を決することは難しいのではないかと考えられるのです。それよりも、清澄寺の別当が「いくらほどの事に候べき。但な(名)ばかりにてこそ候はめ」の存在にすぎなかったところから、宗派にとらわれない官寺として位置付けた方がより実態に近いのではないでしょうか。
台東両系では、「いくらほどの事に候べき。但な(名)ばかりにてこそ候はめ」にすぎない二間寺・清澄寺別当と位置付けていく=権限のない名目的な存在にする、という約束・ルールのようなものが存在したものか、または時を重ねゆく過程で、自然とそのような扱いとなったものでしょうか。異なる法脈・法系が共存するには、共存を前提としての新たなルール作りが必要になったのではないかと思うのです。
※1「光日房御書」 建治2年3月
同じき四月八日に平左衛門尉に見参す。本よりごせし事なれば、日本国のほろびんを助けんがために、三度いさめんに御用ひなくば、山林にまじわるべきよし存ぜしゆへに、同五月十二日に鎌倉をいでぬ。但し本国にいたりて今一度、父母のはかをもみんとをもへども、にしきをきて故郷へはかへれといふ事は内外のをきてなり。させる面目もなくして本国へいたりなば、不孝の者にてやあらんずらん。これほどのかた(難)かりし事だにもやぶれて、かまくらへかへり入る身なれば、又にしきをきるへんもやあらんずらん。其時、父母のはかをもみよかしと、ふかくをもうゆへにいまに生国へはいたらねども、さすがこひしくて、吹く風、立つくもまでも、東のかたと申せば、庵をいでて身にふれ、庭に立ちてみるなり。