安房国清澄寺に関する一考 34
【 真言・天台が共にあった走湯山 】
これまで見てきたことをまとめると、
・「走湯山縁起」では空海の来訪、安然の虚空蔵菩薩求聞持法の修法を伝える。これらは東密・台密の法脈が、早くから走湯山に共存していたことを物語るものではないか。
・同じく「走湯山縁起」では安然門弟の隆保が法華八講を行ったことを伝えている。
・天台僧・青蓮院慈円と、天台僧で法然浄土教の門人であった安居院聖覚の伊豆山・箱根山管理。
・源頼朝挙兵の頃、東密の文陽房覚淵と専光房良暹が走湯山に住し、頼朝の支援に動いていた。
・天台僧にして「毎日三万遍」の念仏行者、法然と親交があり信州善光寺如来の信奉者である浄蓮房源延は、走湯山の管領となっている。
・東密の僧・宥祥は走湯山遍照院に住して活発に弘法し、「伊豆の伝=伊豆教学」を興している。
・日興上人と問答した式部僧都は天台・台密僧と考えられる。
・大石寺9世・日有「聞書捨遺」の「山中五百坊」は正確な数字ではないにしても、走湯山は相当な規模であったと推測でき、東密と台密が共住しても十分な寺域があったと思われる。
以上を併せ考えれば、走湯山には東密と台密の二つの法脈が同居していたといえるでしょう。頼朝が再興した鶴岡八幡宮寺では、寺社勢力と源氏との関係を考慮したうえで各派のバランスを取ったという側面もあったと考えますが、別当は三井寺と東寺出身者が続き、25坊の初代供僧は山門・比叡山4坊、寺門・三井寺15坊、東寺6坊となっていて台密と東密が共に在る寺院でした。窪田氏は論考で、台東両系の混住の例として京都愛宕山白雲寺を紹介されましたが(窪田P334)、そこには鶴岡八幡宮寺と走湯山を加えるべきでしょう。
東密・台密が共存した走湯山。
この走湯山の一例を以て、清澄寺にも同様のことがいえるのではないでしょうか。走湯山は「走湯権現・走湯社・伊豆山」「伊豆山権現・伊豆大権現」とも称されて諸方にその名が聞こえ、鎌倉時代には箱根山(箱根権現)と合せた二所権現として、関東武士の信仰を集めていました。
この宗教的聖地、霊地には東・台の僧が集い居住して、活発な活動を展開しました。清澄寺は「慈覚大師建立求聞持七所成就霊地事」(沙門鏡心書写)に見られるように、文明15年(1483)になっても慈覚大師・円仁が虚空蔵菩薩求聞持法をなした霊地として喧伝されており、無限なる宇宙空間の尽きることなき知恵、溢れる慈悲を内蔵しているとされる虚空蔵菩薩のもとへ、「一経耳目文義倶解。記之於心永無遺忘」経典を一度見聞きする事有れば、経典の意味を理解する事ができ、永く忘れる事が無いという知恵、知識、記憶力の増進を求めて東密の行者が足を向けるのも、けだし当然なことであったでしょう。
「虚空蔵菩薩求聞持法・山林修行の霊場」である安房国清澄寺に、東密・台密の修学・修行者が居住することは、十分に有り得ることだと考えるのです。