安房国清澄寺に関する一考 32
【 走湯山管領・浄蓮房源延 】
走湯山で生まれたとされる浄蓮房源延は、天台僧にして熱烈な浄土教家でした。三田全信氏の教示(「伊豆山源延とその浄土教」仏教大学研究紀要・第54号)に導かれながら、源延の事跡を追ってみましょう。
源延(保元元年・1156~?)は比叡山に登って安居院澄憲の門に入り、顕密を学んでいます。次いで、信濃国筑摩郡にある法住寺に住した味岡流・忠済のもとで、台密を学んだと伝わります。彼は遮那業相承では円仁の法流に連なり、その系譜は「円仁―長意―玄昭―智淵―明靖―静真―皇慶―長宴―範賢―経海―寛賢―豪賢―伊豆上人(源延)」というものでした。
また「善光寺縁起」には「毎日三万遍」の念仏行者で、40歳から66歳まで毎年二度、三度と善光寺に参詣したと記される浄土教家でもありました。建仁3年(1203)8月6日に師僧・澄憲が亡くなりますが、専修念仏義について法然に問法。翌建仁4年(1204)2月17日、法然より「浄土宗略要文」が送られています。
「吾妻鏡」建暦3年(1213)3月23日条には、「浄遍僧都・浄蓮房等召しに依って宮中に参る。御所に於いて、法華・浄土両宗の旨趣御談儀に及ぶと」と記録され、浄蓮房源延と浄遍は源実朝(建久3年・1192~建保7年・1219)に法華・浄土の法門について談議しており、その博学ぶりがうかがわれます。
貞応2年(1223)6月12日条には、「伊豆の国走湯山の常行堂造営の事、柱に於いてはすでに立てをはんぬ」とあり、走湯山の常行堂が造営されていますが、「走湯山上下諸堂目安」によれば修理供養は「上蓮上人源延」が導師を務めています。
貞応3年(1224)8月8日条に「今日故奥州禅室の墳墓[新法花堂と号す]供養なり。導師は走湯山の浄蓮房[加藤左衛門の尉實長の斎なり]」とあり、源延が導師となって北条義時(長寛元年・1163~元仁元年・1224)の墳墓供養が営まれています。
走湯山は度々火災に見舞われています。
「吾妻鏡」嘉禄2年(1226)12月29日条には、「今夜夜半、伊豆の国走湯権現の宝殿並びに廻廊、堂舎数十宇焼亡す。その火翌日午の刻に至る迄滅さずして云云」とあります。
嘉禄3年(1227)1月4日条には「去年十二月晦日亥の刻、走湯山御在所の拝殿・竈殿・常行堂並びに廻廊・惣門・金剛力士像以下回禄の由、平左衛門尉盛綱之を披露す。この事重事為に依って、去る一日中間を顧みるに不及に、当山の所司馳せ参じ之を申すと雖も、元三之間たれ者、盛綱これを抑へ留むと」とあって、平盛綱が火災の模様を将軍に報告していますが、この時の火災では拝殿、宝殿、竈殿、常行堂並びに廻廊、堂舎数十、惣門、金剛力士像等が焼けています。また、夜半に出火して鎮火したのは翌日の午の刻・昼頃ですから、走湯山の伽藍は相当な規模であったことがうかがわれます。
安貞2年(1228)2月3日条には、「伊豆の国走湯山の専当参着す。去る夜子の刻、当山の講堂・中堂・常行堂失火の為災す。俗躰は取り出し奉らず。同じく以て灰燼と為すと。常行堂は、去年冬の比相州の御沙汰として造営す。而るに孫子死去するの間延引す。未だその功を終えざるの処、また以て回禄す。直なる事に非ざるか。」とあります。これによれば、2月2日、またもや走湯山で火災が起き、講堂、中堂、常行堂という主要堂宇が灰燼に帰してしまったようです。
特に常行堂は北条時房(安元元年・1175~仁冶元年・1240)の沙汰により昨年・安貞元年(1227)冬に造営されたのですが、時房の孫が亡くなったため、作業が中断されていたものでした。頼朝以来、幕府にとって由緒ある宗教的聖地で火災を繰り返し、主要堂宇が完成前に燃えてしまったのは衝撃的な出来事だったのでしょう。ただ事ではないとの不安が感じられる記述となっています。
安貞3年(1229)2月11日条には、「武州の御亭に於いて、走湯山造営の事その沙汰有り。当山管領の仁浄蓮房参上す。陰陽師を召し日次を定めらる。三月五日事始めたるべきの由、親職朝臣以下四人これを撰び申す。盛綱奉行たり」と、武州亭・北条泰時の館で走湯山の造営等についての話しがあり、浄蓮房源延は走湯山管領として出席し、陰陽師を呼んで造営の日時と奉行を決めています。
慈円から安居院聖覚に走湯山・箱根山の管理が委ねられたのが建仁元年(1201)のことでしたから、引き続き天台僧が全山を掌握する要職の立場にあったことが確認されます。続く2月21日条では、「三崎の海上に於いて来迎の儀有り。走湯山の浄蓮房駿河の前司の請いに依って、この儀を結構せんが為、兼ねてこの所に参り儲く。十余艘の船を浮かべ、その上に件の構え有り。荘厳の粧い夕陽の光に映え、伎楽の音晩浪の響きを添うなり。事訖わり説法有り。その後御船を召され、嶋々歴覧し給う」と記録しています。
三浦義村(?~延応元年・1239)が三浦半島三崎の海上で行った阿弥陀来迎の儀式は、10余の船を浮かべ音楽を奏でて島々をめぐる盛大なもので、義村の要請により源延が儀式の進行を取り仕切り説法をしています。