安房国清澄寺に関する一考 31

7 走湯山をめぐって

【 走湯山の安居院一門 】

建仁元年(1201)、京都・青蓮院の慈円(久寿2年・1155~嘉禄元年・1225)は安居院(あぐい)澄憲(※1)の子である聖覚(※2) に伊豆山(走湯山)、箱根山の支配を委ね(※3 門葉記)、安居院流の一門が関東に進出しています。

一、桜下門跡荘園等

甘露寺 在松崎

穴太園 在東坂本

伊豆山

箱根山

大学寺 伊勢国

国友庄 近江国

安養寺 丹波国

件庄園伝領之輩為尩弱之間。毎処違乱。爰権少僧都聖覚領掌之後。為小僧房領。仍経院奏達執政多以令落居了。~件領等可令聖覚僧都門跡永領掌也。

安居院聖覚の箱根山、伊豆山の管理がどのようなものだったかは不明ですが、安居院一門は伊豆山・箱根山を拠り所として説経を行ったと考えられ、安居院の「神道集」には伊豆・箱根の二所権現の本地譚をはじめ関東諸社の縁起類を収めています(角川源義氏「語り物文芸の発生」[1975 東京堂出版]の教示 P467~P472)。

親鸞(承安3年・1173~弘長2年・1262)に関する所伝では建仁元年(1201)、親鸞は聖覚に導かれて吉水の法然のもとに入門しており、箱根山、伊豆山を掌握した聖覚は天台僧であり、同時に法然浄土教の門人でもありました。

前に見た走湯山の東密僧・文陽房覚淵と源頼朝の親交が、「吾妻鑑」治承4年(1180)7月5日条に記録され、走湯山の住侶・専光房良暹(りょうせん・東密僧)が鎌倉に来て鶴岡八幡宮寺の仮の別当になったのも同年のことでしたから、それから21年後、建仁元年(1201)の走湯山は天台僧の管理下にあったことがうかがわれるのです。

※1 澄憲

澄憲(ちょうけん 大治元年・1126~建仁3年・1203)は平治の乱で自害した信西(藤原通憲)の子で、比叡山東塔北谷竹林院の里房である安居院に居住しています。冶承元年(1177)、配流地・伊豆へ向かう明雲から一心三観の血脈を受けています。数多くの法会で導師・講師を務め、「富楼那尊者の再誕」「四海大唱導一天名人」「説法珍重」「説法優美」と讃えられた唱導法談の名手でした。安居院流唱導の祖とされています。

※2 聖覚

聖覚(せいかく 仁安2年・1167~嘉禎元年・1235)は恵心・檀那の両流の相伝を受け、唱導については父・澄憲同様、説教の巧みなることで一世を風靡します。法然の門人となるや、念仏門の布教に多大な貢献。承久3年(1221)8月14日、専修念仏の肝要はただ信心であることを説いた「唯信鈔」を著しています。

親鸞は「唯信鈔」を尊重し、註釈を加えた「唯信鈔文意」を著します。嘉禄3年(1227)6月22日に延暦寺衆徒が法然の墓を破却し、7月には弟子の隆寛らが遠流となり、10月には延暦寺衆徒が「選択集」の版木を焼いた「嘉禄の法難」の際には、聖覚は専修念仏の停止を要求して「選択集」の版木処分を進めたようです。

※3 「門葉記」

青蓮院第17世門跡・尊円法親王(永仁6年・1298~正平11年・延文元年・1356)が、青蓮院門跡の祖・行玄(承徳元年・1097~久寿2年・1155)以来の歴代の密教の修法、勤行、法会、灌頂、所領、雑事等の記録を集大成したもの。