安房国清澄寺に関する一考 30

【 日本第一の御厨にある清澄寺 】

青年日蓮が書写した「授決円多羅義集唐決」奥書にある「阿房国東北御庄清澄山」の「東北御庄」は「とうほくみくりや」と読み慣わされ、東条御厨のこととされます。17歳の日蓮が「東北御庄」と書いたことは、山中講一郎氏が「日蓮伝再考」(P222 平安出版 2004年)で指摘されるように、源頼朝が伊勢神宮の外宮に東条郷を御厨として寄進して以降、清澄寺が御厨内にあることを大衆は誇りにしていたことの表われではないでしょうか。

他にも「新尼御前御返事」(文永12年2月16日)には、「安房の国東條の郷は辺国なれども日本国の中心のごとし。其故は天照太神跡を垂れ給へり。昔は伊勢の国に跡を垂れさせ給ひてこそありしかども、国王は八幡加茂等を御帰依深くありて、天照太神の御帰依浅かりしかば、太神瞋りおぼせし時、源の右将軍と申せし人、御起請文をもってあをか(会加)の小大夫に仰せつけて頂戴し、伊勢の外宮にしのびをさめしかば、太神の御心に叶はせ給ひけるかの故に、日本を手ににぎる将軍となり給ひぬ。此人東條の郡を天照太神の御栖(おんすみか)と定めさせ給ふ。されば此太神は伊勢の国にはをはしまさず、安房の国東條の郡にすませ給ふか。例せば八幡大菩薩は昔は西府にをはせしかども、中比は山城の国男山に移り給ひ、今は相州鎌倉鶴が岡に栖み給ふ。これもかくのごとし。日蓮は一閻浮提の内、日本国安房の国東條の郡に始て此の正法を弘通し始めたり」とあります。

「聖人御難事」(弘安2年10月1日)には、「安房の国長狭郡之内東條の郷、今は郡也。天照太神の御くりや(厨)、右大将家の立て始め給ひし日本第二のみくりや、今は日本第一なり。此郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして」と記述しています。

日蓮大聖人が自らの出身地について、「天照太神の御栖・日本国の中心である安房の国東條の郡」(新尼御前御返事)とし、「右大将・源頼朝が立てた日本第一の御厨の内の清澄寺」(聖人御難事)を意味することをわざわざ記述したのも、そのような誇りが少年・青年期の修学時代に培われたていたことによるものといえるのではないでしょうか。

このような清澄寺大衆の意識、誇りともいうべきものが、「源頼朝側=幕府側・体制側にある者・東密僧」を迎え入れる精神的な下地になったと考えるのです。伊豆、鎌倉に根を張っていた東密の僧ら、東寺系の鶴岡別当と付き従う東密系の僧、鶴岡坊舎の東密系供僧とその弟子・法縁、幕府高官とつながりのある僧らが関東各地に教線を伸ばしていき、その一つに虚空蔵菩薩求聞持法の霊場である清澄寺があったというものではないでしょうか。

真言・東密僧が清澄寺に進出してきたのも、「源頼朝が立てた日本第一の御厨の内の清澄寺」となったことの一現象、時代がかくしたもの、と天台・台密系の大衆はとらえたのかもしれません。

北条実時(元仁元年・1224~建治2年・1276)が六浦荘金沢に創建した称名寺に、下野薬師寺で密教を修め、律僧としての名声もあった妙性房審海(※)が開山として入寺しています。その時期は文永4年(1267)9月ですが、半年前の3月には清澄寺にいて「求聞持口決」を書写しています。このことは円仁が再興したと伝え虚空蔵菩薩求聞持法の霊場であった清澄寺へ、台密だけではなく、他の法脈・法系の修学・修行僧が集っていた一つの事例としてあげられるのではないかと思います。

求聞持口決

文永四年(1267)丁卯三月五日妙性(審海)書写了。

本云

同年二月於安州清澄寺書写了。

(金沢文庫古文書・識語編1・P125)

また、「氏名未詳書状」では、去年8月(年号は不明)下旬に日々の宿願が叶い、清澄寺に参籠したことが記されており、法脈・人物が明らかではないものの、清澄寺での参籠自体が一つの願望であったことがうかがえます。この文書により、修学・修行者が目指すべき宗教的境地到達への一つの手段として、清澄寺での修行、参籠のあったことが読み取れるのではないでしょうか。

氏名未詳書状

無指事候之□□不

申入候、抑去年八月

下旬に日比宿願候天房州

清澄寺に参籠□下向

(闕名書状編P99)

※下野薬師寺における審海の師僧は慈猛、その慈猛の師僧は密厳でした。

密厳は下野薬師寺を中興した律僧であり、密教にも造詣が深く、無住の「雑談集」には「下野の薬師寺の長老密厳故上人は天台、東寺両流の真言顕密の学生にて随分の名人なり」と賞賛されています。

慈猛は円仁門徒で顕密の修学に励み、後に東寺の門に入り、醍醐の法脈にも連なり浄月の灌頂を受けています。下野薬師寺では長老職につき、関東では律僧かつ東密の僧として名声を博しました。

元園城寺の僧で、山城国松尾の法華山寺峰堂を開いた勝月房浄月は真言・立川法門を密厳に伝え、密厳は慈猛に、慈猛は審海に相伝しています。慈猛から審海への相伝は建長6年から文永元年の11年間にわたるもので、称名寺には立川法門の印信が多数伝来しています。

審海は、下野薬師寺で慈猛より立川流を相伝し、極楽寺住僧・道海からは戒学を受け、称名寺在山時代を含めると次のような法脈を相伝しています。

< 法脈 >     < 僧名 >

立川流          慈猛

 同           憲静

意教流          頼賢

 同           憲静

 同           公然

壺坂方金剛王院流      憲静

安祥寺実厳方        定仙

勧修寺真慶方        定仙

同 増瑜方         増瑜

西院宏教方         憲静

西院円祐方         智照

(櫛田P345、P541~P547)