日蓮一門の身延入山に関する一考 9 【完】

【 「法華経の体現者・日蓮」として「原点の山林」に還り新たなる出発を期した 】

日蓮大聖人は清澄寺で少年から青年となり、修学期は比叡山で少なからぬ時を過ごし、結果として少年時代より壮年期まで山岳寺院で学び、多くの時を刻んでいます。身延の草庵もまた山中に位置しています。

修学期は「法華経の持経者」でもあったろう大聖人は、人間社会の日常の中で世俗権力・宗教的権威との対決、激しい法華勧奨を繰り広げて、「開目抄」に「日蓮だにも此の国に生まれずば、ほとをど世尊は大妄語の人、八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし」と記すように「法華経の行者としての自覚」を横溢させており、晩年の「仕上げ」を期すに当たっては「新たなる心持」で原点の山林に還ったといえるでしょうか。

これは「持経者」に戻ったというよりも、身は「山林」に還りながらも豊富な経験を有する大聖人は「法華経の体現者」として、弟子檀越を時に厳しく、時に包み込むような優しさで教導していきます。自らの意図があったのか、潜在意識がそうさせたのかは定かではありませんが、「山林」という一点で「出発の住処」と「新たなる出発の地・晩年の住処」を同じくしたのです。

自らの主張を始めた頃は「法華経は釈迦牟尼仏なり」(守護国家論)でしたが、「法門の事はさど(佐渡)の国へながされ候ひし已前の法門は、たゞ仏の爾前の経とをぼしめせ」(三沢抄 建治4年[1278]2月23日)と宣言した身延期の多くの書簡を開けば、大聖人は法華経そのものと化していたようで、「法華経は日蓮なり」との境地だったでしょうか。

何しろ、「有諸無智人 悪口罵詈等」「加刀杖瓦石」「数数見擯出」等、多くの経文を「日蓮一人これをよめり」(開目抄)身読したとしているのです。そして多くの門下に授与した曼荼羅首題下に「日蓮」と大書しているところに、教理面を越えた大聖人の末法の導師・教主としての自覚を感じるのです。

曼荼羅本尊首題下に大書された「日蓮」との二文字。

身延の草庵で、日蓮大聖人の仏法は成ったということがいえるのではないでしょうか。