日蓮一門の身延入山に関する一考 8

【 自らの体調 】

上野殿母尼御前御返事(所労書)  弘安4年(1281)12月8日

さては去ぬる文永十一年六月十七日この山に入り候ひて今年十二月八日にいたるまで、此の山出づる事一歩も候はず。たゞし八年が間や(痩)せやまい(病)と申し、とし(齢)と申し、としどし(歳歳)に身ゆわ(弱)く、心を(老)ぼれ候ひつるほどに、今年は春よりこのやまい(病)をこりて、秋すぎ冬にいたるまで、日々にをと(衰)ろへ、夜々にまさり候ひつるが、この十余日はすでに食もほとを(殆)どと(止)ゞまりて候上、ゆき(雪)はかさなり、かん(寒)はせめ候。身のひ(冷)ゆる事石のごとし、胸のつめ(冷)たき事氷のごとし。

冒頭より、病が体を痛め続けたことが記されていますが、「八年が間痩せ病」ということは弘安4年(1281)の8年前は文永10年(1273)なので、その体は佐渡の一谷に在った頃だと推定されます。ということは度重なる「法難」も因とするものか、大聖人は佐渡期よりなんらかの病の身となり、体調不良となっていたことになります。

文永11年(1274)には、53歳となった大聖人は体調面を考慮した時、もはや第一線で「法華経最第一」を自らが訴えるのは厳しいと判断したのではないでしょうか。「文永8年の法難」以前、鎌倉にあって内に天台大師講を行い、外に法華折伏を敢行した時代に、佐渡期を区切りとして大聖人は自ら別れを告げたと思うのです。

老境に入った身と、痩せ病と体調、このような観点からもその足を山林へと向けたものと考えます。しかしながら、身延入山がむしろ「痩せ病」を進行させることになってしまったという見方もあり、同地は病者静養の地としては向いてなかったようです。

中務左衛門尉殿御返事(二病抄)  弘安元年(1278)6月26日

将又(はたまた)日蓮が下痢去年十二月卅日事起こり、今年六月三日四日、日々に度をまし月々に倍増す。定業かと存ずる処に貴辺の良薬を服してより已来、日々月々に減じて今百分の一となれり。しらず、教主釈尊の入りかわりまいらせて日蓮を扶け給ふか。地涌の菩薩の妙法蓮華経の良薬をさづけ給へるかと疑ひ候なり。

大聖人は下痢が止まらず、弘安元年以降は亡くなるまで続いた模様です。この時は四条金吾が処方した薬で体調が回復、金吾の真心に対して「釈尊が助けてくれたのであろうか」「地涌の菩薩が妙法蓮華経の良薬を授けてくれたのであろうか」と感謝しています。

兵衛志殿御返事 弘安元年(1278)11月29日

去年の十二月の卅日よりはらのけ(下痢)の候ひしが、春夏や(止)むことなし。あき(秋)すぎて十月のころ大事になりて候ひしが、すこしく平癒つかまつりて候へども、やゝもすればを(起)こり候に、兄弟二人のふたつの小袖わた(綿)四十両をきて候が、なつ(夏)のかたびら(帷子)のやうにかろ(軽)く候ぞ。ましてわたうすく、たゞぬのもの(布物)ばかりのものをも(思)ひやらせ給へ。此の二つのこそで(小袖)なくば今年はこゞ(凍)へじ(死)に候ひなん。

6月の四条金吾への書状では、やや体調が上向いたことを記されたものの、その後も「はらのけ」下り腹が続いたことがうかがわれます。