日蓮一門の身延入山に関する一考 7

【 門弟等の避難所、拠り所として 】

「滝泉寺申状」(弘安2年[1279]10月)に「去ぬる四月御神事の最中に、法華経信心の行人四郎男を刃傷せしめ、去ぬる八月弥四郎男の頸を切らしむ」とあることから、弘安2年秋の熱原法難に先立つ4月、ある神社での神事の最中、一法華信者に対する刃傷事件が起き、8月には同じく法華信者が殺害されたことがうかがわれます。

この神事での刃傷事件に関連したものでしょうか、「富士下方熱原新福地神主」(「弟子分本尊目録」日興)を南条時光がかくまっていました。それに対し、大聖人は「去ぬる六月十五日のげざん(見参)悦び入って候。さてはかうぬし(神主)等が事、いまゝでかゝ(抱)へをかせ給ひて候事ありがたくをぼへ候。~中略~を(置)かせ給ひてあしかりぬべきやうにて候わば、しばらくかうぬし(神主)等をばこれへとをほせ候べし」(上野殿御返事 弘安3年[1280]7月2日)と熱原の神主をかくまってくれた礼を述べ、南条家の周辺が不穏であれば、神主を「これへ=身延山へ」寄こすように告げています。

実際、弘安4年(1281)3月18日の「上野殿御返事」には、「蹲鴟(いも)一俵給び了んぬ。又かうぬし(神主)のもと(許)に候御乳塩(ちしお)一疋(ぴき)、並びに口付(くちつき)一人候。」とあって、神主は南条家を出て身延山の大聖人のもとにいたことが確認されます。

このことにより身延の草庵は日蓮法華信仰展開に必然する迫害、弾圧を被った門弟等の避難所としての機能を有していたことが理解でき、それは身延入山時の構想の一つとしてあったと考えてもよいのではないでしょうか。

大聖人は南条氏に対しても、「所領」について「違ふ事」があったならば、「いよいよ悦びと」して、「これへわたらせ給へ」と身延に来るように促しています。

南条殿御返事 建治元年(1275)7月2日

このよ(世)の中は、いみじかりし時は何事かあるべきとみえしかども、当時はことにあぶ(危)なげにみえ候ぞ。いかなる事ありともなげかせ給ふべからず。ふつとおもひきりて、そりょう(所領)なんどもたが(違)ふ事あらば、いよいよ悦びとこそおもひて、うちうそぶきてこれへわたらせ給へ。所地しらぬ人もあまりにすぎ候ぞ。当時つくし(筑紫)へむかひてなげく人々は、いかばかりとかおぼす。これは皆日蓮を、かみのあな(侮)づらせ給ひしゆへなり。

建治元年(1275)夏、南条氏の周辺で法華経信仰故の問題があったようです。「所領」について「違ふ事」とあることから、上(または周囲)からの信仰退転強要等、南条家の領地存亡にかかわる大事だったでしょうか。

弘安元年(1278)11月29日の「兵衛志殿御返事」には、

人はなき時は四十人、ある時は六十人、いかにせ(塞)き候へども、これにある人々のあに(兄)とて出来し、舎弟(しゃてい)とてさしいで、しきゐ(敷居)候ひぬれば、かゝはやさにいか(如何)にとも申しへず。心にはしづ(静)かにあじち(庵室)むすびて、小法師と我が身計り御経よみまいらせんとこそ存じ候に、かゝるわづらわ(煩)しき事候はず。又とし(年)あけ候わばいづくへもに(逃)げんと存じ候ぞ。かゝるわづらわしき事候はず。又々申すべく候。

とあって、次々と弟子檀越が訪ねてくるので狭い草庵は人が溢れるばかり。心静かに少人数で法華経を読み、研鑽に専念したいのだが、現実は騒がしい状況で、年が明けたら何処かへと逃げ出したいものであるとしており、山間の狭い草庵での賑やかなる光景を記録しています。

これによれば、例えば「御庵室の後にかくれ」(下山御消息)て、大聖人の説法を聴聞、法華経の信奉者となった因幡房のような者もいたことでしょうし、各地から様々な門弟が集ったことでしょう。「人はなき時は四十人、ある時は六十人」ということは、大聖人は「求めて来た者は皆受け入れる」という姿勢だったことを示すものではないでしょうか。

ここに、物理的収容力よりも精神的包容力を優先した身延山での日蓮一門の有り様が確認され、身延の草庵は多くの「弟子檀越の拠り所となっていた」と理解できるのです。そして、自らの法華伝道の運動により弟子檀越にも相当な類が及んだことを知悉している師匠であれば、いつでも門下が安心して集える場所を確保することも、入山構想の一環として考えていたのでしょう。