日蓮一門の身延入山に関する一考 6
【 蒙古襲来に備えて 】
次に「山林に交わる」意味として考えられるのが、蒙古襲来に備えるというものです。
この頃の日蓮大聖人は、先に見たように蒙古襲来は必定としており、実際に平左衛門尉に告げたとおりに元軍は文永11年(1274)10月5日に対馬を襲い、続いて壱岐は10月14日、10月20日には筑前国に上陸して日本勢と激戦を繰り広げています。ですが、この時は夜半のうちに元軍の姿は消えてしまいました。
他国が日本に攻めよせて国土を蹂躙する他国侵逼難は周知の通り、「立正安国論」以来、大聖人が主張するところであり、であれば、鎌倉を出た大聖人の念頭には「蒙古襲来に備えて居を移す」というものがあり、その具体的な行動が身延入山だったのではないでしょうか。
実際に元軍などが本土、特に東日本に進攻してきたらどうなるのでしょうか。まずは諸国との交易拠点、国内の物流拠点、地方都市等の軍事拠点を順次攻め落とし、最後には包み込むように武家政権、幕府の本拠地たる鎌倉が陸から海から攻撃され制圧されるだろうことは、軍事的な素人でも想像できるところです。主要街道も軍事物資運搬の路線となり、周辺部も緊張に包まれることでしょう。
では、身延山はいかがでしょうか。
軍事的に、元軍が意識をするような要衝の地だったのでしょうか?これもまた誰にでも答えは分かろうというもので、戦闘時もその後の占領でも、見向きもされないような山間のへき地というべきでしょう。
大聖人の書簡より、身延山の様相を見てみましょう。
新尼御前御返事(与東條新尼書) 文永12年[1275]2月16日
此の所をば身延の岳(たけ)と申す。駿河の国は南にあたりたり。彼の国の浮島(うきじま)がはらの海ぎはより、此の甲斐国波木井郷身延の嶺(みね)へは百余里に及ぶ。余の道千里よりもわづら(煩)はし。富士河と申す日本第一のはやき河、北より南へ流れたり。此の河は東西は高山なり。谷深く、左右は大石にして高き屏風(びょうぶ)を立て並べたるがごとくなり。河の水は筒の中に強兵(がっぴょう)が矢を射出したるがごとし。
此の河の左右の岸をつたい、或は河を渡り、或時は河はやく石多ければ、舟破れて微塵(みじん)となる。かゝる所をすぎゆきて、身延の嶺と申す大山あり。東は天子の嶺、南は鷹取(たかとり)の嶺、西は七面の嶺、北は身延の嶺なり。高き屏風を四つつい(衝)た(立)てたるがごとし。峰に上りてみれば草木森々たり。谷に下りてたづぬれば大石連々たり。
大狼(おおかみ)の音(こえ)山に充満し、猿猴(えんこう)のな(鳴)き谷にひゞき、鹿のつま(妻)をこうる音(こえ)あはれしく、蝉のひゞきかまびすし。春の花は夏にさき、秋の菓は冬になる。たまたま見るものは、やま(山)が(賊)つがた(焚)き木をひろうすがた、時々(よりより)とぶらう人は昔なれし同朋(どうぼう)なり。
法蓮抄 建治元年[1275]4月
今適(たまたま)御勘気ゆりたれども、鎌倉中にも且くも身をやどし、迹(あと)をとゞむべき処なければ、かゝる山中の石(いわ)のはざま、松の下に身を隠し心を静むれども、大地を食(じき)とし、草木を著(き)ざらんより外は、食もなく衣も絶えぬる処に、いかなる御心ねにてかくか(掻)きわ(分)けて御訪ひのあるやらん。知らず、過去の我が父母の御神(みたま)の御身に入りかはらせ給ふか。又知らず、大覚世尊の御めぐみにやあるらん。涙こそおさへがたく候へ。
種種御振舞御書 建治元年[1275]或いは建治2年[1276]
此の山の体たらくは、西は七面の山、東は天子のたけ、北は身延山、南は鷹取の山。四つの山高きこと天に付き、さがしきこと飛鳥もとびがたし。中に四の河あり。所謂富士河・早河・大白河・身延河なり。
其の中に一町ばかり間の候に庵室を結びて候。昼は日をみず、夜は月を拝せず。冬は雪深く、夏は草茂り、問ふ人希なれば道をふみわくることかたし。殊に今年は雪深くして人問ふことなし。命を期として法華経計りをたのみ奉り候に御音信ありがたく候。しらず、釈迦仏の御使ひか、過去の父母の御使ひかと申すばかりなく候。
交通は不便、周囲は山また山で険難悪路、人里から離れ食糧事情は悪く、日当たりもなく冬は極寒、夏は草茂り蒸し暑い。平時ですら人の営みとは隔たった山間部であり、元軍が仮に進軍して来たとしても、このような所では全くの軍事的関心外、せいぜいが富士川沿いに通過するだけてじょう。もちろん常駐する必要もありません。
元軍だけではなく、国内での「戦乱」も含めて身延の草庵の地を見たとき、戦闘行為に巻き込まれる危険性が少ない山間へき地なのです。
故に大聖人は、佐渡の国府入道に報じた書状中で「蒙古国の日本にみだれ入る時はこれへ御わたりあるべし」(こう入道殿御返事)と、有事の際には身延山に避難するように呼びかけているのではないでしょうか。
そして、「文永の役」では日本国として被った実害は一部地域に止まったものの、先に見たように大聖人は次なる蒙古襲来は大災難になるとしていたのです。
もう一度、御書を確認してみましょう。
日本中が次なる侵攻の恐怖に脅えていた「文永の役」の翌年、建治元年(1275)6月に著した「撰時抄」。
今末法に入って二百余歳、大集経の於我法中・闘諍言訟・白法隠没の時にあたれり。仏語まことならば定んで一閻浮提に闘諍起こるべき時節なり。
蒙古のせめも又かくのごとくなるべし。設ひ五天のつわものをあつめて、鉄囲山を城とせりともかなうべからず。必ず日本国の一切衆生兵難に値ふべし。
いまにしもみよ。大蒙古国数万艘の兵船をうかべて日本国をせめば、上一人より下万民にいたるまで一切の仏寺・一切の神寺をばなげすてゝ、各々声をつるべて南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱へ、掌を合はせてたすけ給へ日蓮の御房、日蓮の御房とさけび候はんずるにや。
元軍は必ずや攻め来たって「日本国を治罰」するということは、日蓮大聖人の法門展開の既定路線、構想の一部とまで化している感があります。
大聖人は身延の地にあって、「大蒙古国にせめられてすでにほろ(滅)びんとする」(上野殿母尼御前御返事 弘安3年[1280]10月24日)日本の行く末を見極めて、謗法者が「隣国の聖人」(撰時抄)によって治罰された後、「是くの如く国土乱れて後上行等の聖人出現し、本門の三つの法門之を建立し、一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑ひ無き者か」(法華取要抄 文永11年(1274)5月24日)と、「日蓮が法門」の内実=本尊と教義の国土への展開・妙法蓮華経の広宣流布を考えていたのではないでしょうか。
この思いは身延入山後、書簡中に「蒙古襲来による亡国論」の記述が増え続けることから理解できるように、年月を重ねて次第に強まっていくのです。