断簡「弘安改元事」に思う

弘安元年に系年される「弘安改元事(こうあんかいげんのこと)」という断簡があります(真蹟1紙3行、全集未収録)。 書状の断片ですから、本文に何が書かれていたかは分かりません。そこには、

弘安元年 太歳(たいさい)戌寅(つちのえとら)、建治四年二月二十九日改元。疫病故歟(疫病の故か)

と記されていますが、最後の四文字には日蓮大聖人の多くの思いが込められているのではないかと拝察します。

疫病により世は行き詰った。

改元により人心は改まる。

疫病と改元で衆生の機は変化しており、我が一門も大きく変わるのはこの時である、等々。

建治末から蔓延した疫病により「十家に五家・百家に五十家、皆や(病)み死し」(松野殿御返事)と、次々と命を落としていく人々。改元前日に富木常忍に報じた「始聞仏乗義(就類種相對種法門事)」(建治4年2月28日)文末には、「病身為るの故に委細ならず又又申す可し」とあり、自身も病身で思うように書簡を記せない状態であったことがうかがわれます。

疫病による大量死の中にあって我が身も病身であれば、明日をも知れぬ心境となるものですが、大聖人は「最後のとき」を迎えるかもしれない悲壮感以上の「法華の勇猛心」といいましょうか、語るべきを語り、書くべきを書き、成すべきを成して「日蓮が法門」を創りあげていくのです。

第七にやぶられぬれば仏になる事かたし。其の六は且(しばら)くをく。第七の大難は天子魔と申す物なり  三沢抄(建治4年2月23日)

⇒第六天の魔王・天魔を呼び出だす信仰実践をしていきなさい。その時こそ最高の喜びではありませんか。

さど(佐渡)の国へながされ候ひし已前の法門は、たゞ仏の爾前の経とをぼしめせ(同)

⇒末法万年の衆生救済の法門が明かされていくのは、御本尊を顕して以降です。

正像の寺堂の仏像・僧等の霊験は皆きへうせて、但(ただ)此の大法のみ一閻浮提に流布すべしとみへて候(同)

⇒日蓮以前の法門・爾前権教は終わりです。この妙法のみが衆生救済の法にして、一閻浮提に広宣流布していくのです。

・花押はバン字から雄渾なボロン字へと変化し、曼荼羅本尊の相貌座配は整足へ。

・立正安国論に密教批判を書き加える。(建治の広本)

・「日本漢土万国の一切衆生は金輪聖王の出現の先兆の優曇華に値えるなるべし」(教行証御書・弘安元年3月21日)と、末法弘通の大法を優曇華に譬えながら、金輪聖王の出現を待望。

・日興上人を中心とした富士川流域の天台寺院での法華勧奨が活発化し、日興上人らが四十九院を追放されるに至って「四十九院申状」を幕府に提出。

・弘安2年10月には熱原の法難を機として「余は二十七年なり」(聖人御難事)と、出世の本懐を宣言。

疫病と改元、人心の変化という価値観再構築の波が世に押し寄せる中で、日蓮一門の妙法弘通は頂点といえるほどに活発化し、その勢いは三類の強敵を呼び起こして大聖人の出世の本懐成就へと至り、後代への鏡ともいえる展開を見せていくのです。

そのときから741年・・・アフターコロナの信仰の原型は今、創られているように思います。

                                      林 信男