安房国清澄寺に関する一考 29

【 定豪 】

治承4年(1180)、定豪(仁平2年・1152~嘉禎4年・1238)は大和国忍辱山円成寺にて仁和寺・寛遍(康和2年・1100~永万2年・1166)の弟子・兼豪より伝法灌頂を受け、尊寿院、忍辱山流等、諸流を兼帯しました。

建久2年(1191)3月3日、源頼朝より鶴岡八幡宮寺の供僧に補任され、住坊は永全坊と称しました(後に永厳坊)。

建久10年(1199)2月13日、定舜に供僧職を譲ります。

「吾妻鏡」同年(正治元年・1199)6月2日条に「今日、法橋定豪勝長寿院別当職を補す。これ恵眼房の譲りと」(吾妻鏡)とあり、恵眼房性我より譲られて勝長寿院の2代別当になっています。

建保7年(1219)1月27日、3代将軍・源実朝(建久3年・1192~建保7年・1219)が鶴岡4代別当・公暁(正治2年・1200~建保7年・1219)によって暗殺されると同年の承久元年(1219)3月1日、鶴岡5代別当に永福寺別当だった三井寺系の慶幸(?~承久2年・1220)が補任されますが、翌承久2年(1220)1月16日には死去します。

三井寺で受戒した公暁が実朝を暗殺したことにより、北条氏と三井寺系には距離感が生じたようで、承久2年(1220)1月21日、定豪が東寺系としては初めて鶴岡八幡宮寺の6代別当に補任されます。

続いて7代・定雅、8代・定親、10代・頼助、11代・政助と東寺系の人物が鶴岡別当に補任されるようになります。

承久3年(1221)5月に勃発した承久の乱では、幕府は5月20日、定豪に世上無為の祈祷を始めるよう示し、26日には関東で初めての仁王百講(大仁王会)を行っています。この時の導師は安楽坊法橋重慶、読師は民部卿律師隆修が務め、鶴岡・勝長寿院・永福寺・大慈寺等の僧百人が参列しました。

「吾妻鏡」5月22日条に「武州京都に進発す。従軍十八騎なり」とあるように、幕府の東海道軍はわずか18騎で鎌倉を発っていますが、道中で各地の武将が加わり10万を超える兵力となります。

6月14日、幕府軍は京方との激戦の末に宇治川を渡って京都に入り、東寺の戦いを最後に京方の軍勢は完全に敗北し、乱の終結となります。

7月、倒幕を企てた後鳥羽上皇(治承4年・1180~延応元年・1239)は隠岐島へ流され、順徳上皇(建久8年・1197~仁冶3年・1242)は佐渡島へ、土御門上皇(建久7年・1196~寛喜3年・1231)は望んで土佐国へ配流となりました。

承久3年(1221)8月29日、定豪は鶴岡別当職を弟子の定雅に譲ります。続いて承久の乱での祈祷の賞により、幕府の推挙で熊野三山検校になり、新熊野検校、高野山伝法院座主も兼ねています。ですが定豪は鎌倉を離れることはありませんでした。

貞応2年(1223)8月20日、弥勒像を本尊とする鎌倉・南新御堂の供養の導師。

貞応3年(1224)7月30日、北条義時の四十九日仏事の導師。

嘉禄元年(1225)8月27日、北条政子の葬儀の導師を務めます。

「吾妻鏡」同日条には「今日二品御葬家の御仏事。竹の御所の御沙汰なり。導師は弁僧正定豪、曼陀羅供庭儀例に加う。(以下略)」とあります。

同年12月、東寺三長者に補任されます。

安貞元年(1227)12月13日、4代将軍・藤原頼経(ふじわらのよりつね 建保6年・1218~康元元年・1256)の護持僧となります。

同日条には、「護持僧・陰陽師等結番せらる。隠岐入道・周防の前司・後藤左衛門の尉奉行たり。先ず護持僧、上旬・弁僧正、丹波僧都、宰相律師、中旬・大蔵卿法印、大進僧都、常陸律師、下旬・信濃法印、加賀律師、蓮月房律師。次いで陰陽師、一番・泰貞、二番・ 晴賢、三番・重宗、四番・晴職、五番・文元、六番・晴茂」とあります。

安貞2年(1228)8月7日、東大寺別当に補任。

貞永元年(1232)5月18日、北条泰時(寿永2年・1183~仁冶3年・1242)の子・時氏(建仁3年・1203~寛喜2年・1230)の三回忌を迎えて墳墓堂に阿弥陀三尊像が新造され、供養の導師を務めます。同日条に「今日武州故修理亮(時氏)の第三年忌辰を迎へ、彼の墳墓堂に於いて、新造阿弥陀三尊を供養被る。導師は弁僧正定豪と」とあります。

文暦2年(1235)、4代将軍・藤原頼経により鎌倉十二所に明王院・五大堂が建立され、定豪が別当となります。

同年6月29日条には「寅卯の両時新造の御堂の安鎮を行わる。弁僧正(定豪)これを修す。~中略~同時に五大明王像(不動・降三世・軍茶利・大威徳・金剛夜叉なり)を堂中に安置し奉る」とあります。この寺院の歴代も、東密僧によって相承されるところとなりました。

嘉禎2年(1236)12月7日、鎌倉を発ち上洛、年末には東寺一長者となっています。

定豪の祈祷には、幕府から多大なる信頼が寄せられていました。

嘉禄元年(1225)、鎌倉に疫病が蔓延して死者が数千を越える事態となり、幕府要路は災いを払うため祈祷を行うこととし、5月1日、「弁僧正定豪、大蔵卿法印良信、駿河前司義村、隠岐入道行西、並びに陰陽権助国道」(吾妻鏡)らを集めて協議します。北条政子は隠岐入道行西(二階堂行村 久寿2年・1155~嘉禎4年・1238)を以て、「般若心経」と「仏頂尊勝陀羅尼」をそれぞれ万巻書写供養することについて意見を求めます。

これを受け定豪は「千口の僧を屈し、一千部の仁王経を講読(こうどく)被(され)る可き歟(か)」(同)と、千人の僧を集め仁王経を講読すべきことを提案。

また定豪と良信は、「嵯峨天皇の御宇、疫病発し、五畿七道夭亡之族甚だ多し。仍て宸筆を染め、心経を御書写令(せし)め給い、弘法大師を以て、供養を遂げ被(られ)ると」(同)と、空海の時のこととされる先例を挙げて般若心経書写の功徳を説き、書写供養を行うことが決められました。

5月22日、予定通り鶴岡八幡宮寺において、定豪を導師として千二百口の僧供養が行われます。同日条では「寅刻衆会。各、左右の廻廊並びに仮屋等に於て座に着く。先ず仁王経一巻之を転読す。次いで心経、尊勝陀羅尼等十返誦(とな)う。亦、心経、尊勝陀羅尼各、一千巻之を摺被(すられ)る。次いで彼の経、各、百巻金泥を以て書写令(せし)め畢。是者(これは)、諸国彼の一宮毎に、一巻宛てを奉納被(され)る可きと」と記録。

当日、金泥で書写された経巻は、諸国の一宮ごとに一巻を奉納するというものでした。

定豪は40余年も関東にいたことになりますが、各種の法会、祈祷で導師を務めた彼のもと、東密は根を張り展開することになりました。定豪に伝法灌頂を受けた主な弟子には、「貞遍、隆豪、正範、寛耀、定季、定親(鶴岡8代別当)、定清、定雅(鶴岡7代別当)、道快、定舜、有嘉、行仁、顕宴、定証、教雅、良瑜」らがいます。

(以上、櫛田P488~491、貫・鶴岡P131~137)