安房国清澄寺に関する一考 28
【 二階堂永福寺 】
鎌倉における東密の展開に重要な役割を果たした寺院として、鶴岡八幡宮寺と勝長寿院、それに永福寺があげられます。
「吾妻鏡」文治5年(1189)12月9日条に「今日永福寺の事始めなり」とあり、永福寺の造営が始まっています。永福寺は源頼朝が発願し、その意とするところは、文治5年に藤原泰衡(久寿2年・1155~文治5年・1189)をはじめ奥州藤原氏を滅亡させた奥州合戦(7月~9月)での怨霊を静め、三界(欲界・色界・無色界)を輪廻する苦悩を救わんというものでした。
「吾妻鏡」同日の条には「奥州に於いて泰衡管領の精舎を覧せしめ、当寺華構の懇府を企てらる。且つは数万の怨霊を宥め、且つは三有の苦果を救わんが為なり。抑も彼の梵閣等宇を並べるの中、二階大堂(大長寿院と号す)有り。専らこれを模せらるるに依って、別して二階堂と号すか」とあります。頼朝は平泉の二階大堂・大長寿院を模して堂舎を作らせ、二階の堂であったところから、二階堂とも呼ばれています。
建久3年(1192)11月25日、永福寺が完成し、三井寺の公顕(天永元年・1110~建久4年・1193)を導師として落慶供養が営まれました。
「吾妻鏡」同日条は「今日永福寺の供養なり。曼陀羅供有り。導師は法務大僧正公顕と。前の因幡の守廣元行事たり。導師・請僧の施物等は勝長壽院供養の儀に同じ。布施取り十人を採用せらる。また導師の加布施銀劔は、前の少将時家これを取る。将軍家御出でと」と記録しています。
建久5年(1194)12月5日、幕府の御願の寺社である鶴岡八幡宮(上下)、勝長寿院、永福寺に奉行人が定め置かれました。
・鶴岡八幡宮(上下)
大庭平太景義、藤九郎盛長、右京進季時、図書允清定
・勝長寿院
因幡前司広元、梶原平三景時、前右京進仲業、豊前介実景
・永福寺
三浦介義澄、畠山次郎重忠、義勝房成尋
同阿弥陀堂
前掃部頭親能、民部丞行政、武藤大蔵丞頼平
同薬師堂(今、新造)
豊後守季光、隼人祐康清、平民部丞盛時
同年12月26日、永福寺内に新造された薬師堂の供養が営まれ、東大寺別当の東密僧・勝賢(保延4年・1138~建久7年・1196)が招かれて導師を務めています。勝賢は平治の乱で自害に追い込まれた信西(藤原通憲 嘉承元年・1106~平治元年・1160)の子で、安居院澄憲とは異母兄弟でした。
醍醐寺座主、東寺二長者、東大寺別当、東大寺東南院院主を歴任し、付法の弟子は仁和寺の守覚法親王(久安6年・1150~建仁2年・1202)をはじめ22人以上という醍醐三宝院流の正嫡で、頼朝のために修法等を行い(明月記)、深い親交がありました。勝賢の鎌倉下向は、醍醐三宝院の法系が関東地方に発展する因となっています(櫛田P488)。