安房国清澄寺に関する一考 25

【 源頼朝と東密・台密の僧 2 】

元暦2年(1185)3月27日、土佐国介良庄に住む琳猷(りんゆう)上人が、走湯山住僧・良覚の紹介により頼朝と面会します。琳猷は寿永元年(1182)に土佐国で討たれた頼朝の同母弟・土佐冠者希義(源希義・みなもとのまれよし 仁平2年・1152~寿永元年・1182)の遺体を葬り、供養を続けてきた僧でした。

同年(文冶元年・1185)10月27日、頼朝は箱根山、走湯山に奉幣の使いを出し、両山に馬一匹を奉納します。

文治3年(1187)4月2日、鶴岡八幡宮寺、箱根山、走湯山をはじめ相模国の寺が全山あげて勤行、百部の大般若経転読を始めます。後白河法皇の病気平癒祈願のためでした。

文治4年(1188)1月16日、頼朝は鶴岡八幡宮寺に参詣した後、二所詣で(箱根権現・伊豆山権現[走湯山]への参詣)のため精進潔斎の沐浴を始めます。

1月20日、頼朝は300騎余りを従え箱根、伊豆、三島社への参詣に向かいます。

1月26日には鎌倉に戻ります。

2月23日、源範頼(頼朝の異母弟 久安6年・1150~建久4年・1193)が一日おきに発病、「吾妻鏡」は瘧病(おこりやまい)と記述しています。この日より、専光房覚淵を呼び加持祈祷させています。

尚、専光房といえば良暹で、覚淵といえば文陽房であり、専光房覚淵という名は他には見当たりません。政子の出産の時には良暹に祈祷させており、良暹と頼朝家族との関係、先例からすれば、この時も専光房良暹に祈祷させたものでしょうか。専光房覚淵は「吾妻鏡」の誤記だと思われます。

3月2日、範頼の病が治癒したことに頼朝は喜び、馬を良暹の坊へ届けます。

3月15日、鶴岡八幡宮寺の道場で梶原景時の宿願であった大般若経供養が行われ、頼朝も結縁のために参列します。法会の舞楽で舞った稚児は箱根山5人、走湯山3人でした。

「吾妻鏡」12月18日条に「二品走湯山に参らせしめ給ふ」とあり、頼朝は走湯山に参詣しています。

文治5年(1189)7月18日、頼朝は走湯山の住侶・専光房良暹を呼び出し、奥州征伐のため秘かな願いがあるとし、持戒清浄なる良暹が留守中の鎌倉で祈祷を行うこと。奥州へ向け出発して20日経ったら、持仏である正観音像を安置する堂宇を御所の裏山に建てること。その際、大工には依頼せずに良暹自身の手で柱を立てること。これらを命じます。

造営にあたっては別途手を打つことも伝え、奥州征伐祈祷のため、伊豆国北条に伽藍を建てることを立願しています。

約束より一日早い8月8日、良暹は「夢想の告げ」(吾妻鏡)によって御所の裏山に登り、「白地に仮柱四本を立て、観音堂の号を授」(吾妻鏡)けています。8月15日、鶴岡で放生会があり、舞楽は箱根山の稚児8人が舞い、流鏑馬も行われました。

建久元年(1190)1月15日、頼朝は二所詣でに進発。

1月18日、走湯山に参詣。

19日、三島にある伊豆の国府に滞在。

20日夜、鎌倉に帰着しています。

8月15日、鶴岡放生会に頼朝が参列。先ず供僧らが大行道、次に法華経供養。導師は鶴岡別当の円暁が務め、舞楽で舞ったのはこの時も伊豆山(走湯山)より来た稚児達でした。

8月16日、「馬場の儀也。先々会日、流鏑馬・競馬有りと雖も、事繁きに依って、今年は始めて両 日に分け被(らる)るところ也。二品の御出昨日の如し」(吾妻鏡)と、今迄一日で終わらせていた放生会を今回から二日に分け、この日は流鏑馬が行われています。

建久2年(1191)1月8日、頼朝は鶴岡の供僧と走湯山・箱根山の衆徒らに対し、今年中は毎日十二巻の薬師経を読誦することを命じます。

1月28日、二所詣でを前にした頼朝は50人の供を従えて由比ヶ浜に行き、海水で身を清めています。

2月4日、頼朝は鶴岡に参詣して奉幣した後、二所詣りに進発。

2月10日、鎌倉に帰着しています。

建久3年(1192)1月25日、頼朝は走湯山に参詣。

住僧らの臈次(ろうじ 法蠟の次第、順序)については文治4年(1180)に細目を決めてあるが、ややもすれば法蠟、序列を違え越えてしまうことがあったので、今後は法蠟の次第を守るよう重ねて決めています。

5月8日、後白河法皇の四十九日法要には南御堂(勝長寿院)で百僧供が行われます。参加の僧衆は鶴岡八幡宮寺20人、勝長寿院13人、伊豆山(走湯山)18人、箱根山18人、大山寺(石尊権現 阿夫利神社)3人、観音寺3人、高麗寺3人、六所の宮2人、岩殿寺2人、大倉観音堂1人、窟堂1人、慈光寺10人、浅草寺3人、真慈悲寺3人、弓削寺2人、国分寺3人でした。

建久4年(1193)3月4日、この日、後白河法皇の一周忌である13日の千僧供養に参上するよう、鶴岡、勝長寿院、永福寺、伊豆山、箱根山、高麗寺、大山寺、観音寺に使いを出して知らせています。

3月13日、後白河法皇の一周忌を迎え仏事を修し、千僧供養を行います。箱根山の行実と走湯山の良暹も、一方の頭(他にも多数いる)として百僧を従えました。

「吾妻鏡」建久5年(1194)1月29日条に「御台所、伊豆・箱根両権現に奉幣の為、進発せしめ給ふと云々」とあり、この年は頼朝ではなく政子が二所詣でに進発しています。

2月3日、鎌倉に帰着。

4月12日、頼朝は宿願があるとして、伊豆権現(走湯山)の宝前で大般若経を転読することを命じ、神馬を奉納しています。