安房国清澄寺に関する一考 24

【 源頼朝と東密・台密の僧 1 】

治承4年(1180)8月18日、これからの戦により長年の祈りができなくなることを嘆いた頼朝は政子の勧めにより、祈り続けてきた経典の目録を伊豆山の法音尼に渡し、日々の勤行の代行を依頼しています。法音は一生独身を貫いた尼で、政子の御経師でした。

翌19日、石橋山(相模国)の合戦を前にした頼朝は、政子を走湯山の文陽房覚淵の坊舎に避難させています。その後、合戦に敗れ箱根権現別当・行実と弟の永実らに匿われた頼朝一行は安房に逃れて再び挙兵。

10月6日、畠山重忠(長寛2年・1164~元久2年・1205)が先陣、千葉常胤(ちばつねたね 元永元年・1118~建仁元年・1201)が殿(しんがり)を務める頼朝軍数万は鎌倉に入ります。

7日、頼朝は鶴岡八幡宮を遥拝。

11日、走湯山を出てきた政子が頼朝と合流。同日、走湯山の住侶・専光房良暹(りょうせん)も以前からの約束により鎌倉に入ります。良暹も東密の僧であったと思われ(櫛田P485)、覚淵と同じく流人の頼朝が師と仰いだ人物でした。

12日、頼朝は祖宗を崇めるため小林郷の北山を選んで宮殿を作り、鶴岡宮を遷して良暹を当面の別当職に任じ、大庭景義(大治3年・1128?~承元4年・1210)をして神宮寺の事を執行せしめています。

16日、

「武衛の御願として、鶴岡若宮に於いて長日勤行を始めらる。所謂法華・仁王・最勝王等、国家を鎮護する三部妙典、その他大般若経・観世音経・薬師経・寿命経等なり。供僧これを奉仕す。相模の国桑原郷を以て御供料所と為す」(吾妻鏡)

と、頼朝の発願として鶴岡若宮において長日の勤行を始め、法華経・仁王経・最勝王経等、鎮護国家の三部妙典とその他大般若経・観世音経・薬師経・寿命経等の読経を供僧が勤めたとしていますが、貫達人氏は、「良暹が来て4日しか経っておらず、この時点では供僧がいたとは考えにくいものがあり、この記事は10年後の建久(1190~1198)初年、25坊が整備される頃のことと考えないわけにはいかない」、とされています(貫・鶴岡P33)。

この日(16日)、駿河国に達した平維盛(たいらのこれもり 保元3年・1158~寿永3年・1184)の数万を迎え撃つべく、頼朝率いる軍勢が鎌倉を発しています。

10月20日、富士川を挟んで東岸に源氏の兵、西岸に平氏の兵が対峙するも、夜半、平氏の軍勢は急に撤退を始め、本格的な戦闘のないまま「富士川の戦い」は終結しています。

21日、頼朝は平氏の軍勢を追撃して上洛しようとするも、三浦義澄(みうらよしずみ 大治2年・1127~正冶2年・1200)、上総広常(かずさひろつね ?~寿永2年・1184)、千葉常胤らが「まずは一部不安定な東国を固めることに専念すべきである」と諌め、受け入れた頼朝は鎌倉へ戻ることになります。

同日、黄瀬川駅で平泉から駆けつけた源義経(平治元年・1159~文治5年・1189)と対面。また三島社に参詣して神領を寄進しています。

12月4日、頼朝は上総広常に命じて阿闍梨定兼を上総国より鎌倉に呼び、鶴岡八幡宮寺の供僧職に任じます。定兼は安元元年(1175)4月26日、何らかの罪により上総に配流となった東密の僧でしたが、鶴岡八幡が再建されたものの当時の鎌倉には碩徳と言われる人物がいなかったので、「知法の聞こえ有り」(吾妻鏡)と仏教の学徳が高いと評判だった定兼が鎌倉に呼ばれたものでした。

12月25日、石橋山の戦いの時、頼朝が岩窟に納めた小像の正観音を良暹の弟子が見つけ出し、閼伽桶の中に入れて持参。頼朝は手を合わせて受け取り、信心を強盛なものにしたといいます。

「吾妻鏡」冶承5年(1181)3月1日条には、

「今日、武衛、御母儀の御忌月を為すに依って、土屋次郎義清が亀谷堂に於いて仏事を修被(しゅうせら)る。導師は箱根山別当の行実、請僧(しょうそう)は五人、専光房良暹・大夫公承栄・河内公良睿・専性房全淵・浄如房本月等也。武衛聴聞令(せし)め給ふ。御布施は導師に馬一疋・帖絹二疋、請僧は口別に白布二端也」

とあり、頼朝の亡き母の忌月(きげつ・忌日のある月)である3月になり、亀ヶ谷にある土屋次郎義清の堂で法事が行われました。

そこでは箱根山別当の行実が導師を務め、請僧5人の一人として専光房良暹が連なっています。

同年(養和元年・1181)8月29日、頼朝は御願成就の為、鶴岡並びに近国の寺社において「大般若経」「仁王経」等の転読を命じます。特に長日の御祈祷を鶴岡と箱根山、走湯山に命じています。一日を通して経を読む長日の祈祷について、箱根山と走湯山には毎月一日は大般若経一部で「衆三十人」と命じているので、両山の大衆は、30人以上はいたことになり、その規模の一端が窺われるものとなっています。

10月6日、走湯山の住侶・禅睿を鶴岡八幡宮寺の供僧に補任して大般若経衆とし、免田二町(鶴岡西谷)を支給します。

寿永元年(1182)8月11日、政子が産気付き頼朝と諸人が集まり、地元に居住する在国の御家人らも鎌倉に参上。安産の祈祷のため、奉幣の使いを伊豆山、箱根山をはじめ、相模一宮、三浦十二天、武蔵六所宮、常陸鹿島、上総一宮、下総香取社、安房東條庤、安房洲崎社といった近国の主な宮社に向かわせています。

8月12日、専光房良暹と観修が祈祷をする中、政子は男子(頼家)を出産。

9月20日、三井寺の円暁が京都より下向。

9月23日、円暁は頼朝と共に鶴岡八幡宮寺に参り、拝殿で別当職を申し付けられます。

9月26日、頼朝の立ち会いのもと、鶴岡の西麓で別当坊の柱を立て棟上げを行います。