安房国清澄寺に関する一考 3

2 清澄寺内での台密の法脈は

窪田氏は論考で法鑁、寂澄、亮守の三者の事跡を追い、「清澄山内における東密・真言の法脈の厳然たる存在」(窪田P323)を指摘しました。論考中で紹介された文書、事跡によれば、「東密・真言の法脈の存在」は確定したといえるのではないでしょうか。

対して天台・台密の法脈が存在していたことが理解できる、例えば○師から△師への「台密相伝」を窺わせるような文書等はいかがでしょうか。

ここでは日蓮大聖人が残した記述から遡って考えてみましょう。結論から言えば、清澄寺に天台・台密の法脈が伝わっていたことが理解できると思います。

日蓮大聖人は建長5年(1253)の「法門申しはじめ」以降、鎌倉における天台信仰圏のつながりの中にありました。

正嘉3年・正元元年[1259]7月17日「武蔵殿御消息」

大聖人は「天台沙門」と名乗り、「勘文」としての「立正安国論」を最明寺入道時頼に進呈しています。

文応元年[1260]7月16日「立正安国論」 日興写本

大聖人は文応年間(1260~1261)には「天台沙門」と称しています。

「三部経肝心要文」日蓮聖人真蹟集成 第6巻

文永3年に「根本大師門人」(法華題目抄)と称しています。

文永9年(1272)の「祈祷抄」には、

「御房は山僧の御弟子とうけ給わる。父の罪は子にかかり、師の罪は弟子にかかるとうけ給わる。叡山の僧徒の薗城山門の堂塔・仏像・経巻数千万をやきはらはせ給うが、ことにおそろしく、世間の人人もさわぎうとみあへるはいかに」

とあり、意訳すれば、

「御房(日蓮)は比叡山で学問をされたと聞くが、父の罪は子にかかり、師の罪は弟子にかかるという言葉がある。比叡山の僧兵が園城寺の山門の堂塔、仏像・経巻等数千万を焼き払ったのはことに恐ろしいことで、世の人々は比叡山の僧らを非難するようになったことをどのように考えているのか」

と読みますが、大聖人は質問者に自身の事を比叡山延暦寺で修学した者、即ち天台僧として尋ねさせています。

佐渡期には「三国四師」(文永10年[1273]閏5月11日・顕仏未来記)と称して、自らを釈尊、天台大師智顗、伝教大師最澄に連なる法華経弘法の導師と位置付けています。

文永年間(1264~1275)、鎌倉で「天台大師講」を行い、建治期(1275~1278)・弘安期(1278~)に身延山でも行われています。

以上の記述により日蓮大聖人が「天台・台密の法脈」の中にあったことは確実で、それは青年期における修学で決定づけられたものだとしても、このことは少年日蓮が学んだ清澄寺に天台・台密の法脈が存在していたことを示すものとしてよいのではないでしょうか。

即ち、日蓮壮年期の「天台沙門」「根本大師門人」との名乗りと、日蓮大聖人の人脈=つながり拡大した法華勧奨のネットワークが、出家得度した清澄寺内での法脈を語るもの、と考えるのです。このような清澄寺における天台・台密の法脈の存在は、直ちに清澄寺の宗旨を特定するものではありませんが、大聖人から遡って考えれば、師僧である道善房、法兄の浄顕房、義浄房は天台・台密系であったと推定できるでしょう。

17歳(嘉禎4年・暦仁元年[1238])の青年日蓮=是生房は、「清澄山道善房」で天台宗第5代・円珍に仮託された「授決円多羅義集唐決」を書写しています。

「授決円多羅義集唐決・奥書」

嘉禎四年 太歳戊戌 十一月十四

阿房国東北御庄清澄山

道善房東面執筆是聖房 生年十七才

後見人々是無誹謗

道善の房に天台の重書・秘書があったこと、それを17歳の青年僧が書写していることは、道善房と周囲の法脈を考える上で参考になるものです。もちろん、大聖人が東密の法脈に連なっていた、即ち台東両系の相承を受けていたとしてもおかしくはなく、現在のところそのような文書は見当たりませんが、修学時代にいずこかで東密の相承を受けていたことも考えられます。

「善無畏三蔵抄(師恩報酬抄)」(文永7年)では、「顕密二道」の勝劣を知り成仏を期すべく真言(東密)の秘教を修学して尋ねたものの、真言僧で答えられる人はいなかったことを述懐されています。大聖人が真言を修学したとすれば京畿での修学時代であり、真言の東寺・高野山も訪れたと考えられ、そこでの真言の秘教の修学であれば口伝法門や相承も習得した上での成仏論に関しての疑義ですから、「明答者一人もなし」ということは大聖人の密教理解は相当なものであったことがうかがわれるのです。

「善無畏三蔵抄(師恩報酬抄)」(文永7年)

日蓮は顕密二道の中に勝れさせ給いて我等易易と生死を離るべき教に入らんと思い候いて真言の秘教をあらあら習ひ此の事を尋ね勘うるに一人として答をする人なし