産湯相承物語(13)

13・善日童子


 産湯相承は、梅菊女が日輪を懐妊したことを伝えるのみならず、出産に際して、諸天が「善哉々々善日童子・末法教主勝釈迦仏」(注1) と讃えた夢を見たとする。


様々な観点から日文字に関連する逸話を重ねることで、日蓮大聖人の名前の由来を荘厳化しようとしたことが考えられるが、それが相伝といういわば閉じられた状況下において行われていることからは、前提となる共通の知識、理解を有する者の間で一定の事実を伝えることにより、ストレートに表現せずに一定の内容(事実又は考え方)を伝えるという構成が採られている可能性も考えられる。


 例えば、『撰時抄』の「摩耶夫人は日をはらむとゆめにみて悉達太子をうませ給う、かるがゆへに仏のわらわなをば日種という、日本国と申すは天照太神の日天にてましますゆへなり」(全p282) との一節を十分に知っている当事者の間で、日蓮大聖人の母が日輪を懐く夢を見て大聖人を懐妊されたということを伝えれば、『撰時抄』に記された残りの内容についても語らずして伝えることになり、日蓮大聖人の実際の出自とともに、仏教上の位置付けについても、意味付けを与えることができたと考えられる。


 同様のことは、日朗門流に伝えられる『当宗相伝大曼荼羅事』においても「幼稚ノ時ハ日種トモ云薬王丸トモ申セシ也」として、「日種」の名称を挙げていることから、『撰時抄』の一節を下敷きとして展開された日蓮大聖人の御生誕に係る夢物語が各門流に伝えられていた可能性を窺うことができる。


 このように、産湯相承が伝えようとしたことが、共通の知識、理解を有する者同士の間での信仰上の事象であるとすれば、日輪を懐く夢から展開される物語について諸種の展開がなされたと解釈するにしても、そのきっかけとなる夢物語自体については、比較的早い段階で成立していたと考えることができる。


 なお、日蓮大聖人の幼名が善日であったとされることについては、後に日蓮と名乗っている事実から、幼名に日文字が含まれていたと考えること自体は不自然でないだけでなく、『当宗相伝大曼荼羅事』にも、日種という日文字を含む名称と薬王丸の二つを併記されていることからは、あながち否定されるべきものではないと考える。


 しかしながら、善日の記述は、富士・日蓮一体論の末尾の部分に付け足しのように書かれており、富士・日蓮一体論の成立に併せて、あるいはそれに近接した時期に、諸天の讃嘆の内容として附加されたとも考えられるし、また、御実名縁起に見られないことについても、書写の際に富士・日蓮一体論と併せて省略されたと考えることにもためらいはない。


 これに対し、『当宗相伝大曼荼羅事』が伝える薬王丸との名称が産湯相承に見られないことについては、いささか気にせざるを得ない。


 日蓮大聖人の幼名について、日朗門流においては日種と薬王丸、富士門流においては善日というように伝承が分かれていることからすれば、そのいずれが正確なのか、また、その成立の時期についても気になるものの、日興上人の身延離山後には身延と富士の交流が乏しかったことを考えれば、少なくとも伝承内容が一致する部分(日輪を懐いて懐妊したとする夢)については、早期に成立していたことが推定される(注2)。


 そして、薬王菩薩の再誕が天台大師とされること(注3) からは、薬王丸との伝承についても、三国四師(全p509) の考え方を背景として、日蓮大聖人が天台大師を承継するという意義付けを与えるために、後世に附加されたと考えられなくもない。


 しかし、このような推測をしたとしても、『当宗相伝大曼荼羅事』の成立が1358年(大聖人御入滅から77年目)に懸けられることを前提とすれば、むしろ薬王丸という伝承については、あったと考えて然るべきと考える。


 このため、御実名縁起が書写された時点で、身延にも日蓮大聖人の幼名を薬王丸とする確固たる伝承が残っていたとすれば、幼名を善日とする伝承を含む富士・日蓮一体論については、むしろ後世の附加と見て書写しない動機の一つにもなり得たのではないかと思われる。


 しかし、薬王丸という名前があったとすれば、産湯相承がそれを伝えていない理由について積極的な説明をすることは困難に思える。この点について、敢えて理由を与えるとすれば、産湯相承は夢物語を契機として信仰上の意義を伝えようとするものだと考えれば、徹して日文字に拘ったが故と、産湯相承の夢物語のテキストの成立時点で、すでに上行の再誕からさらに進んで釈尊の再誕という思想が確立されていたが故に、天台の再誕を意味することになる薬王丸という名称を略したと考えることは許されないだろうか。

(注1)御実名縁起の表記による。保田本、日教本は、「勝釈迦仏」とはせず、単に「釈迦仏」としている。


(注2)執筆に際して大石寺59世堀日亨上人が全面的に協力されたという湊邦三著『小説日蓮大聖人』は、日蓮大聖人の幼少期のお名前を「薬王麿」としている。このことからは、薬王との伝承の方を古伝として考えられていたことが窺がえる。


(注3)全p414ほか(p777、p801、p857、p1128)

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