大疫病(価値観再構築の波)を越えて~花押の変化に思う
自活サイトのスタートから早くも二ヶ月が経ちましたが、わずか60日で地球上に存在する人間世界の有り様が大きく変化しており、そのあまりの速さに思考の回転が追い付かない感があります。
宗教界一つをとっても、
一人祈るローマ教皇の姿
広い教会で単独でミサを行う牧師
閉鎖される教会、モスク、シナゴーグ、寺院に会館
祈りのネット配信
屋外での集会
活動の止まった各教団
確信、信念というよりも第三者からは狂信的に見える、以前のままに集会を催す教団
・・・等々。
権力、財力、組織力という人間社会では力を以て表現されていたものは新型コロナウイルスの世界的蔓延によりたちどころに飲み込まれ、自分と周囲のいのちそのものが脅かされる事態に至り、自他共の行動も制約されるに及んで『価値観の再構築の波』が押し寄せていることを体感、実感する方も増えているのではないでしょうか。
この状態がいつまで続くのか?
夏頃なのか?
一年なのか?
それとも?
国際情勢でもかねてから指摘されていたG-Zero worldに加えて、新型ウイルスの対応では一部の国が多くの国々への支援を行い、ポストコロナ時代の覇権を意識した動きが見られるようになり、混沌の先の新世界秩序への展望も論じられるようになっています。
誰もが正常に戻ることを願いながらも、増え続ける感染者と惨状を知るほどに、見えない力への対応は先行き不透明感が漂うばかりの思いともなります。
さて、先日確認しましたように日蓮大聖人の生きた時代、建治年間末から弘安初期にかけての疫病は未曽有の大量死をもたらしました。
日本国数年の間、打ち続きけかち(飢渇)ゆきゝて衣食(えじき)たへ、畜るひ(類)をば食ひつくし、結句人をく(食)らふ者出来して、或は死人・或は小児・或は病人等の肉を裂き取りて、魚鹿等に加へて売りしかば人是を買ひく(食)へり。此の国存の外に大悪鬼となれり。又去年の春より今年の二月中旬まで疫病国に充満す。十家に五家・百家に五十家、皆や(病)み死し、或は身はやまねども心は大苦に値(あ)へり。やむ者よりも怖し。たまたま生き残りたれども、或は影の如くそ(添)ゐし子もなく、眼(まなこ)の如く面(かお)をならべし夫妻もなく、天地の如く憑(たの)みし父母もおはせず、生きても何かせん。心あらん人々争(いか)でか世を厭(いと)はざらん。三界無安とは仏説き給ひて候へども法に過ぎて見え候。
松野殿御返事・建治4年(弘安元年)2月13日
今日本国の者去年今年の疫病と、去ぬる正嘉の疫病とは人王始まりて九十余代に並びなき疫病なり。聖人の国にあるをあだむゆへと見えたり。師子を吼(ほ)ゆる犬は膓(はらわた)切れ、日月をのむ修羅は頭の破れ候なるはこれなり。日本国の一切衆生すでに三分が二はや(病)みぬ。又半分は死しぬ。今一分は身はや(病)まざれども心はや(病)みぬ。又頭も顕(けん)にも冥(みょう)にも破(われ)ぬらん。
日女御前御返事・弘安元年6月25日
日蓮強盛にせめまいらせ候ゆへに天此の国を罰する。ゆへに此の疫病出現せり。他国より此の国を天をほ(仰)せつけて責めらるべきに、両方の人あまた死すべきに、天の御計ひとしてまづ民を滅して人の手足を切るがごとくして、大事の合戦なくして、此の国の王臣等をせ(責)めかたぶ(傾)けて、法華経の御敵を滅して正法を弘通せんとなり。
千日尼御前御返事・弘安元年7月28日
大風吹いて草木をからし飢饉も年年にゆき疫病月月におこり大旱魃ゆきて河池田畠皆かは(渇)きぬ、此くの如く三災七難数十年起りて民半分に減じ残りは或は父母・或は兄弟・或は妻子にわかれて歎く声・秋の虫にことならず、家家のちりうする事冬の草木の雪にせめられたるに似たり
妙法比丘尼御返事・弘安元年9月6日
食物欠乏により大悪鬼が跳梁跋扈するようである。
十家に五家、百家に五十家が皆病み死んでしまう。
日本国の一切衆生の三分が二は病んで、また半分が死ぬ。
凄まじい疫病の惨状ですが、そのような中を生き抜いた日蓮大聖人の内観世界は大きな変貌を遂げていました。
それをうかがわれるのが「花押」の変化で、バン字型からボロン字型に変化する時期については、曼荼羅本尊では「弘安元年七月日」の御本尊から、書状では弘安元年六月二十五日付の「日女御前御返事」頃から(※)であり、疫病が山を越えた時期でもあります。
※「興風」第17号 山上弘道氏の論考「日蓮大聖人曼荼羅本尊の相貌変化と法義的意義について」の教示による。
今日蓮は去ぬる建長五年葵丑(みずのとうし)四月廿八日より、今弘安三年大歳庚辰(かのえたつ)十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし。只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり。此即ち母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり。
諌暁八幡抄
母がわが子を慈しむような思いで妙法を弘めてきたものの、疫病・飢饉により次々と亡くなってしまう人々。その報を身延の山中で聞いた大聖人の悲嘆。
ですが、悲しみに暮れている間もなく、疫病の渦中で「御義口伝」(弘安元年正月1日)は成り、続いては「御講聞書」(弘安元年3月19日~同3年5月28日)です。即ち、身延の草庵での法華経講義、法門研鑽は途切れることなく続けられています。
「疫病月月にお(起)こ」(妙法比丘尼御返事)る渦中であればこそ、大聖人は抗うように曼荼羅図顕を続けて信仰世界では弟子檀越を虚空会に連ならせ、現実世界では『我も亦為れ世の父 諸の苦患を救う者なり』(如来寿量品第十六)である久遠の仏『南無妙法蓮華経 日蓮』が『我常に此の娑婆世界に在って説法教化する姿』を曼荼羅として顕し、『我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり』の世を創らんとしたように思います。それは同時に、日蓮法華の教理面と信仰世界を創り上げる作業にもなりました。
疫病の苦海に沈む人々を救い上げんとの思いも込めて曼荼羅を顕したことは、行者から本仏行者、教主への自覚と使命感の高揚と重なって、その「こころがかたちとなる」時に花押の変化も生まれ、バン字からあの一閻浮提を支えるような雄渾なボロン字へと変化し、弘安様式といわれる曼荼羅本尊の相貌座配の整足も成ったと考えるのです。
大疫病を生き抜いてその内面世界を一変させた日蓮大聖人。
「末法一万年の衆生まで成仏せしむる」(御義口伝) 根本尊敬の当体として顕した曼荼羅の相貌は完成期へと至り、翌弘安2年には「余は二十七年なり」(聖人御難事)と出世の本懐を宣言します。
『価値観再構築の波』に流されたり右往左往するのではなく、世で起きていることを我が事としてとらえ、共に悩み悲しみ、嘆き、寄り添い、その思いを言葉として発するという人間としての振る舞い。曼荼羅本尊を顕して、弟子檀越と妙法を唱えるという「新しい信仰のかたち」の創出。人々の心に燈された希望の灯り。
日蓮大聖人と一門の振る舞いからは外的要因により動かされるのではなく、内面の自発性によってこそ『時代と共にある新しい信仰のかたち』が創出されるということを学ぶのです。
新型ウイルスの猛威が世を覆い尽くしている今、建治から弘安にかけての疫病を再確認しながら日蓮とその一門の姿に少しでも迫っていきたいと思います。
林 信男