日蓮門下の神社参詣をめぐって

【 神社参詣可と不可の主張 】

日興上人が「波木井入道の子孫と永く以て師弟の義絶し畢んぬ」(富士一跡門徒存知事)と、波木井実長の子孫と師弟関係を断つ因となったものに実長の「神社参詣」があります。ところが神社へ詣でることは実長一人だけのものではなく、日蓮一門の導師である一弟子五人(日昭、日朗、日向、日頂、日持)の神社参詣についても、日興上人は神天上の法義を破ったとして批判しています。

妙法を唱える日蓮門下が神社に詣でる可否については、鎌倉時代から今日まで続く議論の中核でもあると思います。これより日興一門が五一相対の一つとして挙げた、弟子檀越による神社参詣について考えてみましょう。

日興上人が身延離山の心情を綴った「原殿御返事」には、

守護の善神此の国を捨去すと云ふ事は不審未だ晴れず候。其の故は鎌倉に御座候御弟子は諸神此の国を守り給ふ、尤も参詣す可く候。身延山の御弟子は堅固に守護神此の国に無き由を仰せ立てらる。(日蓮宗宗学全書[以下、宗全]2 P170)

とあって、鎌倉の弟子(日昭・日朗ら)は諸天善神が日本国を守護するのであるから神社参詣を「可」としたこと。身延山の弟子(日興ら)は、守護の善神は天上に去りこの国にはいないという神天上を説いて、神社参詣を「不可」としたことが示されています。

同じく「原殿御返事」には、日向が波木井実長の問いに答えて、神社参詣を「可」としたことが記されています。

守護の善神此の国を去ると申す事は安国論の一篇にて候へども、白蓮阿闍梨外典読に片方を読て至極を知らざる者にて候。法華の持者参詣せば、諸神も彼の社壇に来会す可く、尤も参詣す可し(宗全2 P171)

「富士一跡門徒存知事」と「五人所破抄」では、一弟子五人の神社参詣の主張と日興一門の批判を記しています。

富士一跡門徒存知事

一、五人一同に云く、諸の神社は現当を祈らんが為なり、仍って伊勢太神宮と二所と熊野と在在所所に参詣を企て請誠を致し二世の所望を願う。
日興一人云く、謗法の国をば天神地祗並びに其の国を守護するの善神捨離して留らず、故に悪鬼神其の国土に乱入して災難を致す云云。此の相違に依って義絶し畢んぬ。

「五人所破抄」

又五人一同に云く、富士の立義の為体、啻(ただ)に法門の異類に擬するのみに匪ず。剰(あまつさ)え神無の別途を構う。既に以て道を失う。誰人か之を信ぜん哉(かな)。日興云く、我が朝は是れ神明和光の塵、仏陀利生の境也。然りと雖も今末法に入って二百余年、御帰依の法は爾前迹門也。誹謗の国を棄捨するの条は経論の明文にして先師勘ふる所也。何ぞ善神聖人の誓願に背き新たに悪鬼乱入の社壇に詣でん哉。但し本門流宣の代、垂迹還住の時は、尤も上下を撰んで鎮守を定む可し云云。

「原殿御返事」によれば、鎌倉の弟子は「尤も参詣す可く候」とし、日向は「尤も参詣す可し」として檀越の神社参詣を「容認」しています。「富士一跡門徒存知事」では、一弟子たる「五人一同」が現当二世の諸願を祈るために、「伊勢太神宮と二所(箱根神社と伊豆山神社)と熊野」と各地の神社に参詣を企てたとしています。

「富士一跡門徒存知事」の記述は「いつ、どこへ、誰が」という明確なものではないので、実際のところ、一弟子五人の皆が各地の神社に参拝したかどうか、詳細は不明ではあります。ただし一弟子五人の社参(神社参詣)は明確ではないとしても、「原殿御返事」での波木井実長と日興上人、日向のやり取りからは、少なくとも鎌倉の弟子と日向が神社参詣を「容認」していたことは確かだと思われます。

檀越の神社参詣を容認したということは、自己の参詣も「可」としたのと同義ととらえてもよいでしょうから、ここでは「いつ、どこへ、誰が」という詳細は不明としながらも、鎌倉の弟子=日昭・日朗と日向が神社参拝をした、という前提で考えることにしましょう。

【 師の法門「神天上」と師による「八幡大菩薩への叱咤」 】

文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人は前執権最明寺入道時頼に進呈した「立正安国論」の文中で、「万民が正法たる法華経に背いて悪法に帰依し一国が謗法となるならば、守護の善神は法味に飢えて国を捨て去ってしまう、聖人は所を辞して還らない。替わりに悪鬼が乱入して国土に災難を起こす」と指摘しています。

倩(つらつら)微管(びかん)を傾け、聊(いささ)か経文を披(ひら)きたるに、世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てて相去り、聖人所を辞して還らず。是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る。

而るに盲瞽(もうこ)之輩迷惑之人、妄りに邪説を信じて正教を弁へず。故に天下世上、諸仏衆経に於て捨離之心を生じて擁護之志無し。仍(よ)て善神聖人国を捨て所を去る。是れを以て悪鬼外道災を成し難を致すなり矣。

ところが文永8年(1271)9月の法難の際、刑場の竜口へ向かう道中、大聖人は馬より降りて鶴岡八幡宮寺(現在の鎌倉・鶴岡八幡宮)に向き合います。法味に飢えて守護の善神が天に上ったはずの鶴岡八幡宮寺に向かい、八幡大菩薩の懈怠を叱咤するのです。(八幡社頭の諫言)

八幡大菩薩に最後に申すべき事あり、とて馬よりさしおりて高声に申すやう。いかに八幡大菩薩はまことの神か。~今日蓮は日本第一の法華経の行者なり。其上身に一分のあやまちなし。~さて最後には、日蓮今夜頸切られて霊山浄土へまいりてあらん時は、まづ天照大神・正八幡こそ起請を用ひぬかみにて候けれと、さしきりて教主釈尊に申し上候はんずるぞ。いたし(痛)とをぼさば、いそぎいそぎ御計らひあるべし。(種種御振舞御書)

今そこに八幡大菩薩を眼前にしているかのような言動ともいえ、これが「以前の立正安国論の神天上の考えはどこに行ってしまったのか」との疑念となり、そこから「善神は法味に飢えて天上ではあるが、法華経の行者が神社に詣でれば再び降りてくる」との解釈が生まれました。

それでは、「神社参詣を可とする主張」を詳細に確認してみましょう。

【 神社参詣を可とする主張 】

八幡社頭の諫言からは、文応元年(1260)に「立正安国論」を著してから11年が経過した文永8年(1271)、釈尊直参の法華経の行者たるの自覚が横溢した日蓮大聖人は一国謗法による神天上に加えて「法華経の行者がいるところ、守護の善神も栖み給う」という考えを確立しつつあったことが理解できるのではないか。

建治2年(1276)7月21日の「報恩抄」には、

いかにいわうや、日本国の真言師・禅宗・念仏者等は一分の廻心なし。如是展転至無数劫疑ひなきものか。かゝる謗法の国なれば天もすてぬ。天すつれば、ふるき守護の善神もほこらをやひ(焼)て寂光の都へかへり給ひぬ。

とあって、「神天上」は堅持しながら更に4年を経過した弘安3年(1280)12月の「諌暁八幡抄」では、八幡大菩薩(善神)は垂迹であり本地は釈尊であるとして、八幡大菩薩は正直の頂である法華経の行者に栖み、そこには諸天の守護もあることを教示している。

遠くは三千大千世界の一切衆生は釈迦如来の子也。近くは日本国四十九億九万四千八百二十八人は八幡大菩薩の子也。今日本国の一切衆生は八幡を恃み奉るやうにもてなし、釈迦仏をすて奉るは、影をうやまって体をあなづる。子に向いて親をのるがごとし。本地は釈迦如来にして、月氏国に出でては正直捨方便の法華経を説き給ひ、垂迹は日本国に生まれては正直の頂にすみ給ふ。諸の権化の人々の本地は法華経の一実相なれども、垂迹の門は無量なり。

今八幡大菩薩は本地は月氏の不妄語の法華経を、迹に日本国にして正直の二字となして賢人の頂にやどらむと云云。若し爾らば此の大菩薩は宝殿をやきて天にのぼり給ふとも、法華経の行者日本国に有るならば其の所に栖み給ふべし。法華経の第五に云く、諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護す、文。経文の如くば南無妙法蓮華経と申す人をば大梵天・帝釈・日月・四天等、昼夜に守護すべしと見えたり。

このように日蓮大聖人の守護善神の認識は、初期の「立正安国論」の神天上というものから、「大難四度」を経て内面世界が法華経体現者として昇華されるに及んで、一国が謗法であろうとも「法華経の行者が参ればそこに善神は還る」(種種御振舞御書・八幡社頭諌言)、「法華経の行者の頂には善神が栖み、そこに諸天による守護の働きもある」(諌暁八幡抄)という展開となっている。

それまでの、『一国皆正法であるならば日本国守護・擁護の諸天善神の働きも盛んになり、逆に謗法諸宗が一国に蔓延すれば諸天善神は法味に飢えて天に上ってしまうという善神観』は維持しつつも、日蓮大聖人に如来使、法華経の行者として、また上行菩薩たるの秘めたる自覚が横溢するに及んで、諸天善神の働きも『一国守護から法華経の行者を擁護する守護善神としての位置付けに比重が移ってきた』のではないだろうか。

弘安元年(1278、または弘安3年[1280])5月3日の「窪尼御前御返事」には

日蓮はいやしけれども、経は梵天・帝釈・日月・四天・天照太神・八幡大菩薩のま(守)ぼらせ給ふ御経なれば、法華経のかたをあだむ人々は剣をのみ、火を手ににぎるなるべし。

とある。

日興上人の一弟子(日昭・日朗と日向)に対する批判は「立正安国論」に示された「神天上」によるもので、実際「原殿御返事」にも「立正安国論是れなり」「安国論の正意」とあるのだが、師によって「種種御振舞御書」と「諌暁八幡抄」に示されたことを勘案すれば、「法華経の行(持)者が神社に参詣すれば諸天善神もそこに来会する」との理解も生まれようというもので、一弟子(日昭・日朗と日向)の神社参詣は師の「行い」と「教え」にもとづいて行われたといえるだろう。

そのことを明快に言い表したのが日向の「法華の持者参詣せば、諸神も彼の社壇に来会す可く、尤も参詣す可し」との説示ではないか。

要は日興上人の主張も「正」、一弟子(日昭・日朗と日向)の理解と社参(神社参詣)も「正」となるのだが、その源は日蓮大聖人の化導であって、ここでもやはり、本尊の人(仏像)・法(曼荼羅)を共に正とした日蓮大聖人の両論並列的なものが、師亡き後、門弟間での理解の相違と対立を招く結果となったことが窺えると思う。

結論としては「立正安国論」以降、特に文永8年の法難での八幡社頭諌言や「諌暁八幡抄」の教示に至る展開を踏まえれば、弟子や檀越が神社に参詣することは師説に対する理解からであった、といえる。

これを批判した日興上人と一門の神社不参も師説の通りなのだが、これまで見てきた日蓮大聖人の教説の展開と広がりからすれば、日興上人側の主張は師の教説の一部分をもって自説を構築したものといえ、かえって師の宗教世界を狭めるものになったのではないか。

師の教えを解釈して自説とし、そこに師の真意があると内外に宣し、他を批判して自己が師の正統なる後継であるとする手法は、(信奉者にとって)偉大なる導師亡き後の教団内で常のように行われてきたもので、日興一門が作った「五一相対」もその典型例といえるのではないだろうか。

【 御書に示される天照太神、八幡大菩薩 】

私としては結論的には、

日蓮大聖人が顕した曼荼羅本尊により、天照太神、八幡大菩薩の法義的位置付けは明瞭となり、神を個別に勧請する神社への参詣は必要ないことが理解できる。「立正安国論」のとおり謗法の国では神天上、善神捨国であり、八幡大菩薩への叱咤(八幡社頭諌言)は「諸神を信仰する人々に対して国神すらも随える法華経の行者としての自己の法位を内外に顕した」ものである。

と考えています。

御書に示される天照太神、八幡大菩薩を確認すれば、個別に拝する対象としての神ではなく他の神々と共に「日蓮が法門」(兄弟抄他)として摂し入れていた、大聖人の常の思考というものが読み取れます。

*「平左衛門尉頼綱への御状」 文永5年10月11日

法華を謗ずる者は三世諸仏の大怨敵なり、天照太神・八幡大菩薩等、此の国を放ち給う故大蒙古国より牒状来るか

*「法門申さるべき様の事」 文永6年

日本一州上下万人一人もなく謗法なれば、大梵天王・帝桓並びに天照大神等、隣国の聖人に仰せつけられて謗法をためさんとせらるるか

*「日眼女造立釈迦仏供養事」 弘安2年2月2日

天照太神・八幡大菩薩も其の本地は教主釈尊なり

*「窪尼御前御返事」 (弘安3年か)5月3日

日蓮はいやしけれども、経は梵天・帝釈・日月・四天・天照太神・八幡大菩薩のまほらせ給う御経なれば、法華経のかたをあだむ人人は剣をのみ、火を手ににぎるなるべし

*「聖人御難事」 弘安2年10月1日

日蓮をば梵釈日月四天等、天照太神・八幡の守護し給うゆへに

・国神、日本国を諫める、擁護する神としての天照太神と八幡大菩薩

・正法・法華経の行者守護の善神としての天照太神と八幡大菩薩

・教主釈尊の垂迹としての天照太神と八幡大菩薩等々。

天照太神、八幡大菩薩をはじめ諸々の神々を「日蓮が法門」の一部として摂し入れて展開するところに、大聖人ならではの包摂、摂入の思想というものがうかがえます。そこからは、神々は法華経の行者に付き従いその働きを護るという役割であって、改めて社参して手を合わせる対象ではないということが理解できると思います。

その意味を端的に顕したのが曼荼羅本尊における相貌座配ではないでしょうか。

【 曼荼羅本尊における相貌座配より理解できること~神社参詣の必要なし 】

曼荼羅での座配は、「弘安元年太才戊寅七月 日」の本尊(立正安国会御本尊集No49)より、天照太神・八幡大菩薩の二神は首題「経」字の両側、又は下方に配列されて定位置のようになっていきます。

さて、日蓮大聖人が曼荼羅本尊を顕し続けたその心については、「日蓮が魂による衆生教化と救済」「一切衆生皆成仏道」「法華弘通の当体を顕す」「一閻浮提広宣流布・立正安国」「久遠仏の慈悲を流れ通わす」「仏なき時代の仏の再現」「日蓮が慈悲の当体」等々、様々考えられるところですが、蒙古襲来に危機感が高まる一方であった当時の日本国内外の激動と曼荼羅図顕は時期的に重なっており、「観心本尊抄」に

今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり。此の時、地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す、一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。月支・震旦に末だ此の本尊有(ましま)さず。

とあることからも、「他国侵逼難」を意識してのもの、「一閻浮提第一の本尊を此の国に立て世を救わん」という意も含まれていたのではないでしょうか。

此の悪真言かまくら(鎌倉)に来りて、又日本国をほろぼさんとす。(清澄寺大衆中)

と、大聖人が承久の乱での朝廷側敗北の因とした東密などの僧侶の弟子達が以前から鎌倉入りしており、今度は蒙古・異国調伏の為に祈祷を行なっている現状がありました。

対して大聖人は佐渡に配流され、社会的には抹殺扱い。このような流れに抗するかのような、佐渡での「開目抄」「観心本尊抄」の執筆。身延入山後の、「立正安国論」への東密批判の書き加え。文永の役、続いての弘安の役。時を同じくして本格化する曼荼羅の作成。

これら大聖人の事跡と社会の動向を勘案すると、東密(真言)、台密(天台)破折、更に密教僧が調伏の祈祷を捧げる胎蔵・金剛また法華曼荼羅等への破折、真の異国調伏・国土安穏は法華経に依るべきであり妙法曼荼羅への祈りである。滅びに向かうこの国に一閻浮提第一の本尊を立て、世を救うという観点からも、妙法曼荼羅を顕し続けたという見方もできるのではないでしょうか。

そこに「天照太神・八幡大菩薩」の二神を配したということも、個別に立てて祈祷する対象としての神ではなく妙法曼荼羅に摂し入れられることによって初めて、本来の日本国擁護の国神としての力用を発揮する、そこには法華経の行者守護の意も含意されると示したのではないかと考えるのです。

いわば、『正しい天照太神・八幡大菩薩観はここにあるのだよ』との教示の当体が曼荼羅本尊でもあるのです。

ということは、『天照太神・八幡大菩薩の立ち位置、法義的意義』は、虚空会の相貌を顕した曼荼羅本尊に摂し入れられてはじめて成り立つということであり、それは同時に『曼荼羅に納められた仏・菩薩・善神は個別に立てる・勧請して礼拝するものではない、曼荼羅総体として拝するところに個々の力用が発揮される』ということを意味するのではないでしょうか。

【 日向の神社参詣停止~教団の既成化 】

神社参詣をめぐって意見を闘わせた日蓮大聖人の一弟子たち。

日興一門は日昭・日朗・日向らの「神社参詣」を批判したのですが、日向については「富士一跡門徒存知事」の「追加八箇条」で神社参詣を停止させたと記されています。

一、民部阿闍梨も同く四脇士を造り副ふ。彼菩薩の像は比丘形にして納衣を著す。又近年以来諸神に詣ずる事を留むるの由聞く也。

注意を要するのは「近年以来」が日向または後継の日進のどちらの代にかかるのか、ということです。「富士一跡門徒存知事」は正和2年(1313)または元応2年(1320)以降、元亨3年(1323)以前の成立と推定されています(山上弘道氏の論考「富士一跡門徒存知事について」興風19号P52)。

日向は正和3年(1314)9月3日、62歳で亡くなっているので、「富士一跡門徒存知事」の成立が正和2年(1313)であれば存命中ですが、元応2年(1320)より後となれば入寂以降のことになります。

日向が神社参詣を停止させたのか、それとも次の日進によるものなのか?

「富士一跡門徒存知事」の系年の幅が広いので文中の「近年以来」が日向・日進どちらの代にかかるかは正確なところは不明ですが、「富士一跡門徒存知事」が元亨3年(1323)以前の成立ということは日向入寂から9年後のことなので、仮に神社参詣停止が日進によるものだとしても師日向の説が影響を及ぼしたことも考えられます。いずれにしても「富士一跡門徒存知事」の系年の幅は、日向の思想が継承されたと思われる時代ですから、ここでは正和2年(1313)成立の可能性も考慮して、「日向が神社参詣を停止させた」を前提にすることにしましょう。

さて、この文によって「日興の制誡が影響したもの」とする見方がありますが、どうでしょうか。

晩年の日向が神社不参を説いたことについても、日興上人の影響というよりも、波木井実長に説示した「諸神来会」から、「立正安国論」の「神天上」の法門を前面に立てることに転じた可能性があり、その背景としては門流の確立に伴い財政基盤を安定的に継続させる必要が生じたためではないかと思うのです。

身延山を日向より継いだ日進について、「日蓮教団全史」(P81)は以下のように解説します。

日進は初め日心、又は日真と称し三位公と号した。青年の頃は叡山・京都に学び、師跡をつぐや大いに同山諸堂を建立し、中山日祐と深く交わりをむすび、また教学上においても日祐の疑問につき決答し指導もしていて東西の二山相依って宗風を揚げたのである。

正安2年(1300)12月、日向が板本尊を造立したことが「身延山文書」に記録されています。

「身延山久遠寺諸堂等建立記」

一、板本尊 本尊は祖師の御筆を写すか、下添え書きは、第三祖向師の筆也。下添え書きに云く、正安二年庚子十二月 日、右、日蓮幽霊成仏得道乃至衆生平等利益の為に敬ってこれを造立す。(宗全22 P56)

中山法華経寺3世・日祐の「一期所修善根記録」により、日蓮入滅より70年を経過した正平6年・観応2年(1351)頃、身延山には金箔を使った板本尊が安置されていたことが確認されます。

一、観応二年辛卯十一月十八日御影堂棟上、翌年三月十八日御殿入並に供養、導師日樹 此外 身延山久遠寺同御影堂、大聖人の御塔頭、塔頭板本尊 金箔 造営修造結縁、真間弘法寺御影堂等の造営、同結縁、貞和二年(1346)丙戌三月御影の本妙寺御厨子之を造立す~(宗全6 P446)

一門が作られれば教理面の構築とともに、寺院経営を安定化させ、僧侶の生活基盤を確立しなければならず、それは財政基盤の確立と同義でもあります。

・他に優越する教義で檀越の信仰を強固なものにする。

・寺院の縁起を作り、本尊を重厚なものにして由緒正しきものとし、日蓮真蹟を集め宝物とする。

・壮麗な建築・仏具で荘厳して寺院参詣の功徳を説き、自派の財政面を安定的に継続するために信仰面で檀越を囲い込む。

・即ち檀越が他の教派に無用な布施をしないようにする教理的裏付けが必要となる。

それには、師日蓮大聖人の他宗批判と「神天上」に勝るものはなかったといえるのではないでしょうか。妥協なき宗教的共同体は財政基盤が安定する反面、布教の展開、教えの広がりは一定の範囲に留まる傾向性を持っていたと推測されますが、このような事情は一人日向のみならず、日興上人、日朗らの門流にあっても同様のことだったでしょう。

師説を純粋に信奉して布教、やがて一門が作られれば伝道拠点が必要となります。当初は有力檀越の持仏堂、粗末な堂宇から始まったものが、寺院に発展すればそこには仏法というよりも世間的な認識も加わり、僧俗ともに寺院としての荘厳を欲するようになるのは人間心理として自然なことでもあったでしょう。そこに他に勝るとする教義が拍車をかけたのではないでしょうか。

出家者を養い寺院を荘厳するためには、信奉者となった檀越に転向されることがあってはいけません。ここにおいて出発当初の志とはかけ離れた既成化の道をたどることになるのですが、概していえば、この繰り返しが日本仏教の歩みの一側面といえるのではないかと思います。

尚、京都、関東の諸門流、また身延山にあっても、源がどこに発するかは明らかではありませんが、戦国期までは謗法寺社参詣・謗法同座・謗施受用は共通の法度であり、それらが変じたのは菅野憲道氏の論考「武田氏の駿河侵攻と富士門徒」(興風17号P28)により、天文法乱(天文5年・1536)、安土問答(天正7年・1579)以降であり、特に「重・遠・乾師ら受派の関西学派が関東諸山の不受派の諸師を追放して以降、上方風の摂受主義と雑乱信仰が入ってからのことである」(同書P29)ことが指摘されています。

大要をまとめれば以下のようになるでしょうか。

日蓮大聖人の時代から一弟子の時代にかけては混とんとしていたものが、各地に門流が確立されるに至って祖師の教義を基にした導師の解説により教理面が整備、門流ごとの共同体意識が醸成され、それは宗教的権威が一定の認識のもと重んじられていた鎌倉、室町時代と続いた。

しかし、天文5年(1536)の天文法乱を経て天正7年(1579)の安土宗論が行われた安土桃山時代になり、政治権力のもとに宗教的権威は屈することが明白となった。そして文禄4年(1595)の豊臣秀吉主催の千僧供養会における不受不施義に端を発し、日奥が流罪となった慶長4年(1599)の大阪対論、寛永7年(1630)の身池対論よって池上、中山、平賀などの関東諸山の不受派の高僧が追放されるに及んで、政治権力の前に宗教的権威と信念は葬り去られ、教義を改編せざるをえない事態となった。

【 まとめとして 】

本尊における人と法、法華経の本と迹、諸天善神観と神社参詣、自派の仏教上の立ち位置等、一門のこと始めであるが故に、師説に対する教義的見解をめぐって弟子ごとに理解の相違が生まれ、やがて互いを批判して決裂するに至ります。

そのような過程では、何が「正」で何が「邪」であるかなどは、誰も判定できる者はいませんし決しようがないと思われましたが、実は師の教えにその明答は存在していました。

御書と曼荼羅本尊です。

解釈論に陥り不明となったならば師説に還る。

日蓮門下の原点だと思います。

                                    林 信男

前の記事

【投書】気づいた私!