令和2年 3月度 座談会御書 兵衛志殿御返事(三障四魔事)

しを(潮)のひ(干)るとみ(満)つと月の出づるとい(入)ると、夏と秋と冬と春とのさかひ(境)には必ず相違する事あり、凡夫の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障(さわり)いできたれば賢者はよろこ(喜)び愚者は退くこれなり

(御書1091ページ15行目~16行目)

◇いのちを見つめて

いのちを見ていのちから語る

これが仏法です。

言葉と生きていく道を説き示したもの

それが仏道です。

いのちというのは見えません。ですが、他者のいのちを見ながら、そのいのちに合わせて語るのですから、自在なる表現となります。不思議ですね、いのちを見るということ。まさに妙なる法ではないかと思います。

日蓮大聖人は「仏というのはあなたですよ、胸中に御本尊があるのです」と言って、教わった人に「えっ?そんなに簡単なの」と思わせることもあれば、違う人には、「仏になるのは容易ではありません、どれだけの艱難辛苦があることでしょうか」と教示することもあります。

いったいどちらが正解なの?といえば、両方とも正解なのです。

人間、誰一人同じ人はいません。百人いれば百のいのち、万人いれば万のいのちです。それぞれの人生のステージは異なり、順風の時に送った言葉、逆風の人に送った言葉に違いが出るのも当然なわけです。

ですが、目指すところは同じで、それは

『成仏』

(一つの解釈として「私の中の私そのものに目覚める」「我が永遠のいのちの歓喜を自覚する」といえましょうか)

この二文字で表現される大いなる世界です。

以上が、「いのちを見ていのちから語るのが仏法である」に関してですが、次は「言葉と生きていく道を説き示したものが仏道である」ということについてです。

2月の座談会御書では「行学の二道をはげみ候べし」(諸法実相抄)とあり、「仏法にも道があります、それは信を根底とした行と学の二つの道です」と学びました。「信じる、実践する=行う、そして学ぶということ」この「信行学」という信仰の三本柱を、人間世界に存在するありとあらゆる言葉で彩り表現して、「共々に進みましょうよ」と手をつなぐのですから、「信行学の道」は言葉と生きていく道であり、それが仏道ではないかと考えるのです。ですから、仏道修行というのは、信行学修行ともいえると思います。

◇僣聖増上慢・天魔と相対した池上兄弟

前置きが長くなってしまいましたが、今回学ぶ兵衛志殿御返事は池上兄弟の弟、池上宗長(官位は兵衛志・ひょうえのさかん)に宛てた書簡です。お兄さんは池上宗仲(官位は右衛門大夫・うえもんのたいふ)です。

兄弟のお父さんは池上康光(官位は左衛門大夫・さえもんのたいふ)といって、鎌倉幕府の作事奉行。社寺、殿舎の築造や修繕、土木工事などを司る幕府の作事奉行は、現代でいえば国土交通大臣に準ずるクラスの人でしょう。社会的地位のある体制側の人ですから、その信仰も幕府の覚えめでたい宗派・僧侶になるのは自然なことであり、極楽寺良観の熱心な信者でした。

大聖人が「僣聖増上慢にして今生は国賊・来世は那落に堕在せんこと必定なり」(極楽寺良観への御状)と、要するに仏法上では最大の悪人と指弾したあの良観ですから、それはもう当然、大聖人が憎くてしょうがない。父の康光に吹き込んで、兄弟の信仰をなんとか捨てさせようとするわけです。

(大聖人は別の「兵衛志殿御書」で、「良観等の天魔の法師らが親父左衛門の大夫殿をすかし」と、良観を天魔であると破折されています)

そこで打ってきた手が、家族を引き裂き分断しようとするもの。

父の康光は兄の宗仲を勘当してしまいます。

さて、どのようなことが起きるのでしょうか。

兄が勘当、親子の縁を切られるということになると、家督相続権は弟に移ります。

鎌倉幕府の作事奉行ですから、池上家には相当な財産があったのではないでしょうか。東京都大田区に、池上家の寄進による池上本門寺という日蓮宗の大きな寺があります。あの広い境内地を歩けば、当時の池上家の財産がどれだけのものであったか、さじ加減は必要にしても、莫大な資産家であったことが推測できます。

さあ、眼がくらみますよね。

今でいえば、何十億でしょうか。信仰を捨てればそれが手に入るわけです。

あなたはどうですか?

私ならぐらつきそうです。

えっ、情けないって?

はい、人間って弱い生き物です。

大金を手にして自己を偽り続けて、騙しだまされて生きていく…

精神論としては情けないですよね。でも、自分の心に正直であろうとすれば、億単位の金には目がくらみます。心が揺れてしまいます。

そこです。

勝負どころは、「その心」です。

「ただ心こそ大切なれ」(四条金吾殿御返事)の、本当の意味はそこにあるのではないでしょうか。

師の言葉をいのちで読み、御書を開きいのちに刻む大きな意味は日々心豊かにだけではなく、本当に試される時、自分一人だけの究極の判断を迫られる時の「退転防止装置」といいましょうか、そういう意味があると思うのです。

ところで、大聖人が僣聖増上慢・天魔であると破折した極楽寺良観は池上兄弟に直接絡んできたのではなく、父を通して兄弟、家族を分断させて、お金の力で法華経信仰を退転させようとした、ということは「僣聖増上慢・天魔はどのような働きをするのか」として記憶に留めておきたいと思います。僣聖増上慢・天魔のやり方がここに端的に現れていますね。

おっと、池上家をめぐる話も長くなってしまいました。

ここまで読むだけでも大変だったと思います。

あと少々お付き合いください。

◇凡夫の仏になるということ

それでは本文です。

意訳

潮が引く時や満ちる時、月の出月の入り、更に夏と秋と冬と春、春夏秋冬の境目には、必ずや相違することがあります。

凡夫が仏になる時もまた同じで、それまでとは相違することがあります。必ず三障四魔という仏道(信行学)を妨げる働きが現れます。その時こそ凡夫が仏になる時ですが、賢者は喜び愚かな人は退いてしまうのです。

干潮から満潮へ向かう上げ3分、満潮から干潮へ向かう下げ7分に魚がよく釣れると言われますが、月の引力と潮の干満に地球の自転、見えないその力を、境目を一番よく知っているのが魚なのかもしれません。

春一番に、木枯らし一号、これが吹けば心もなにか変化するような気分になります。見えない風なのに、人の心を動かす力を持っています。

それと同じく、三障四魔というのも、顔にもどこにも、「私が三障四魔です」とは書いてありません。そこです。いのちを以ていのちを見るという意味がそこにあると思うのです。題目を唱えて「あっ、これが三障四魔の働きか」と気づいた時。誰しもありますよね。

それにしても「凡夫の仏になる」とは、素晴らしい言葉です。

これが「本来の仏教」だと思います。

日蓮大聖人の時代に「仏」といえば「凡夫とは遠いもの」だったことでしょう。それに「仏」との取次役の宗教者としては、「凡夫がそのまま仏」では困ります。途中に「自分達=宗教者」がいなければなりません。そこにこそ彼らの「存在意義」があったわけです。ですから「仏」は絶対の存在、雲の上にまつり上げられて、凡夫には容易に手が届きません。

ところが日蓮大聖人は法華経最第一、唱題成仏を訴えて「凡夫は仏になる」と力説するのです。

そういう意味でも、当時の宗教者からは嫌われ、疎まれ、「なんとかせねば」と思われたのでしょう。やはり、いつの時代でも「正しいことを正しい」ということは困難であることを知りますし、「正しいが故に障害」があるということも言えます。

そして、仏教での「正しい法を行じての障害」、即ち仏道修行で必ず起こるものが「三障四魔」なのです。その障害が、魔が働く時こそ「凡夫の仏になる」時と教示されています。

ということは、「何もない」というのは「何もしていない」に近い状態ともいえ、「何でこんなに次々と色々なことが起きるの?」という時こそ「仏道(信行学)に邁進」するが故といえます。特に「信心を頑張っているのに何故?」などをたまに聞きますが、その答えの一つが「この御書」であり、それは「頑張っているからこその三障四魔なのですよ」といえると思います。

その時こそ「賢者はよろこび愚者は退くこれなり」なのです。

厳しいですね、「よろこぶのは賢者」「退くのは愚者」との教示。だからこそ「なんで」「どうして」ではなく、「よーし、三障四魔来たなー」と前向きな信心=プラス思考でいきたいと思うのです。

では、頑張って、三障四魔を乗り越えて、その次は何があるの?と問われたら、それはその人でしか感得しえない、やはりその人であればこその「感じ得る境地」はあると思うのですね。その「境地」こそが、よく言われる「歓喜の中の大歓喜」ではないのかなと思っています。

資料として、三障四魔の働きなどです。

*三障

・煩悩障=貪・瞋・癡等の煩悩により仏道修行が妨げられる。

・業障=五逆罪( 殺母、殺父、殺阿羅漢、出仏身血、破和合僧 )

十悪( 殺生、偸盗、邪淫、妄語、綺語、悪口、両舌、貪欲、瞋恚、邪見 )

等の業を重ねることによって受ける仏道修行上の障害。

・報障=過去世から今世における悪業の報いとして、権力者・上位者等からうける仏道修行上の障害。

*四魔

・煩悩魔=煩悩を盛んにさせる

・陰魔=心身の五陰(  色、受、想、行、識 )の調和を乱す

・死魔=仏道修行半ばの死

・天子魔=欲界第六天の他化自在天に住む魔王であり、第六天の魔王の働き

*今回学んだ「兵衛志殿御返事」の、大聖人の真蹟は16紙が揃っています。

(但し第11紙末尾11字欠)

真蹟は京都の妙覚寺と東京の某家に伝来しています。

*「兵衛志殿御返事」が書かれたのは、

昭和定本日蓮聖人遺文では、「建治3年11月20日、或は建治元年」

平成校定日蓮大聖人御書では「建治3年11月20日」

日蓮大聖人御書全集では「建治元年11月20日」

とされています。