熱原法難余話(一) 大進房は改心していない

 熱原の法難の際、滝泉寺や富士下方政所と結託して、農民をいじめた一人に大進房がいる。かつては鎌倉門下の大進阿闍梨と混同されていたこともあったようだが、現在では別人であるとの判断で決着している。しかし未だに根強く定着しているのが、大進房が改心したという説だ。この説の根拠になっているのは常忍抄の次の一文だろう。

大進房には十羅刹のつかせ給いて引きかへしせさせ給うとをぼへ候ぞ、又魔王の使者なんどがつきて候いけるがはなれて候とをぼへ候ぞ、悪鬼入其身はよもそら事にては候はじ」

御書全集―P982

これは、農民弾圧の渦中に大進房が落馬した事件についての宗教的意義を語られたものだが、創価学会では、

「大進房には十羅刹女(じゅうらせつにょ)がつかれて引き返すようにされたのだと思われる。また第六天の魔王の使者などがついていたのが離れていったのだと思われる。」(日蓮大聖人御書講義 第十七巻)と訳した上、「大進房は一度は大聖人門下に名を列(つら)ねながら、大聖人並びに門下一同を襲った弾圧の嵐に耐えかねて退転した人である。あるいは、本抄御述作の時点ではわずかでも正信にめざめる兆しがみられたのであろう。」(同―)と解説している。

又、現在御書研究の先端を行く興風談所の「御書システム」でも、同文について、

大進房はこの罰を機に取り憑いていた魔王の使いが離れ、代わりに十羅刹が憑いて、正法に引き返すであろうとの見解が示されている。

御書システム

と解説している。

 つまり、いずれも同文の「引きかへしせさせ給う」を、「改心」と解釈しているのだが、はたしてそうだろうか。

 本状の常忍抄は、十月一日の日付が記されているが、その系年は御書全集では建治三年とし、大石寺の平成新編では弘安元年にかけられている。しかし、その内容から見て、明らかに弘安二年にかけられるべきものである。同文には、

又此の沙汰の事を(も)定めてゆへありて出来せりかしまの大田次郎兵衛大進房又本院主もいかにとや申すぞよくよくきかせ給い候へ
※全集は「を」と読んでいるが正しくは「も」である。

同-P981

とある。「此の沙汰」とは、熱原事件で滝泉寺側が起こした謀略訴訟のことで、刈田狼藉という不実の嫌疑をかけて農民を捕縛し、鎌倉で行われた「沙汰」を指している。富木常忍は日興上人や鎌倉の門下等とともに、鎌倉にてこの訴訟の対応支援にかかわっていた。

 本状が弘安二年であることについては多くの根拠があるが、ここで問題にしたいのは系年ではない。先に引用した文によれば、この沙汰の時、大進房が賀島の大田や本院主とともに滝泉寺側に立っているという事実である。この謀略裁判において彼らがどんな虚偽証言をするのか、よく注意して聞きなさいと指導されているのだ。しかも大進房については、

大進房が事さきざきかきつかわして候やうにつよづよとかき上申させ給い候へ

同―P

とあり、大進房の落馬などの罰の現証を陳状(滝泉寺申状)にしっかりと書き入れ訴えるよう指示されている。つまり、どう見ても大進房は改心などした気配はないのである。とすれば、冒頭に引用した、「改心」と思われた文の解釈が間違っているということだろう。そのような目でもう一度この文を読めば、

「大進房には十羅刹のつかせ給いて引きかへしせさせ給う」とは、法華衆に対して横暴を行う大進房に落馬の罰が現じたのは、十羅刹が付くことで、大進房に取り付いていた魔王の使者が引き返したからであり、よってその横暴を止めさせたのである。と読むべきではなかろうか。あるいは、落馬によって引き返していった実際の様子を述べたものかもしれない。つまり、「又魔王の使者なんどがつきて候いけるがはなれて候」とあるように、魔王の使者が取り付いて暴れていたが、十羅刹の力で魔王の使者がはなれて、攻撃の力を失った、と解釈すべきだろう。

従って筆者は、大進房は、もとより日蓮門下ではなく、終始滝泉寺側の人間だったと考える。「改心」説は、かつての大進阿闍梨と同人説に引きずられた解釈なのではなかろうか。

裁判も大詰めに入った弘安二年十月十二日の御状「伯耆殿御返事」には、「大進房・弥藤次入道等の狼藉の事に至っては源行智の勧めに依りて殺害刃傷する所なり」とあり、大進房が先の四郎男や弥四郎男殺害の実行犯の一人であったことがうかがえる。被害にあった農民信徒の為にも、「改心」という誤解は正されるべきではなかろうか。