熱原法難余話(二) 熱原農民を「おどすことなかれ」?

 熱原法難の渦中、日興上人をはじめとする門下に対し、法難の意義や鎌倉に引っ立てられた農民たちへの対処激励などを指導されたのが「聖人御難事」です。出世本懐抄とも言われ、重要な御書として若いころより何度も熟読した御書のひとつです。

 そんな当時より、一部分だけどうしてもスッキリ納得できない箇所がありました。以下その箇所を引用します。

「彼のあつわらの愚癡の者ども・いゐはげまして・をどす事なかれ、」

(御書全集P1190)

講義録によれば、

「かの熱原の信心微弱な者たちには、強く激励して、おどしてはならない。」

(日蓮大聖人御書講義24巻)

と、現代語訳がされています。

 この「おどす」という言葉がどうもしっくりこない。たとえ信心のための指導とはいえ、「おどす」(脅す・威す)ことがあったのだろうか? しかも無実の禁牢をされた農民への対応として「おどしてはならない」などと指示する場面だろうか?。何より次下の文脈とも合わない。長い間違和感を感じていました。

あるとき、御書の真蹟写真を拝見する機会があり、当該箇所をみますと、「をとす事なかれ」となっていました。あれっ?、確かに当時の原文では仮名文字の濁点は表記しないのが常ではあるけれど、この場合、敢えて「をどす」と濁点読みする必要があったのだろうか?。素直に、「おとす事なかれ」(堕とす)と読めば、「退転させてはいけない」と読めるではないか。どうして「おどす」と読んだのだろうかと不思議に思い、前後の文を再確認していると、数行前の、

「各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ、師子王は百獣にをぢず」が目に飛び込んできた。ああこれだ!。堀上人は、この前文に引っ張られて、「おどす」と読んでしまったに違ない。長年の蟠りが取れる思いだった。

 その後、最近の日蓮研究書や、遺文関係書籍がことごとく「をとす(堕とす)事なかれ」と記していることを知り、ほっとする一方で、創価学会だけが未だに訂正がなされず、関連するコメントなどが一切出されていないようで、SOKAnetの御書全集でも未だ改定が無いことは残念でならない。