【投書】原水爆禁止宣言の日に思う

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投書者:蒼蠅

「原水爆禁止宣言の日」に思う

広島、長崎に核が投下されて今年で81年、核兵器廃絶に向けた世界の現状は、「核兵器禁止条約」の締約国が拡大し、非保有国を中心に軍縮への機運が続いています。しかし、核保有国は条約に猛反発しており、ウクライナ侵攻や東アジア情勢の緊迫化を背景に核戦力の強化を進めているため、核戦争のリスクは高まっているように思います。
一方、唯一の戦争被爆国である日本の現状は、米国の「核の傘」に安全保障を依存しているため、同条約への署名・批准を見送っています。国内では、被爆者団体や自治体が政府に対して条約への加盟や締約国会議へのオブザーバー参加を強く求めており、政府の安全保障方針と世論・被爆地の願いとの間には大きな隔たりがあります。
創価学会の平和運動の原点は、昭和32年9月8日に、戸田城聖が青年部への遺訓として発表した原水爆禁止宣言です。
原水爆禁止宣言が発表されるに至った背景を振り返ってみました。

背景には、世界的な反核運動の流れがありました。
昭和20年8月6日に広島、9日に長崎に原爆が投下され、死者数は、同年広島で14万人、長崎で7万人と推定されています。当初、GHQ占領下では報道規制があり、被害の実相が公にされませんでした。
昭和29年に、ビキニ環礁でのアメリカによる水爆実験により、マグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員が被ばくすると、これを機に東京都杉並区の主婦らによる署名運動が全国へ急速に拡大し、全国で約3,000万人分の署名が集まりました。このビキニ事件により世界的な反核運動の流れとなりました。
昭和30年7月9日、科学者ら11人の連名で、米ソの水爆実験競争という世界情勢に対して提示された核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴えた「ラッセル・アインシュタイン宣言」が発表されました。
昭和31年8月10日に、長崎で第2回原水爆禁止世界大会が開催されるなか、全国の被爆者らによって日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が結成されるという歴史的な節目となり、被爆者自身が核兵器廃絶と被爆者援護を訴え続けています。
2010年代以降は核兵器禁止条約の採択(2017年)に向けた国際的な原動力となり、2024年に日本被団協がノーベル平和賞を受賞しました。
このような反核に対する世界情勢の中、昭和32年9月8日、横浜の三ツ沢競技場において開催された第4回東日本体育大会で「原水爆禁止宣言」が発表されています。
戸田城聖が、この宣言を発表した契機を、人間革命には杉並区の主婦らによる署名運動に「その時代の民衆の自覚と動向を見た」と綴られています。
小説 人間革命第8巻「明暗」の章
「燎原に火の燃えさかるような原水爆禁止の署明運動の展開を眼前にして、そこに時代の民衆の自覚と動向を見た」

第2に、75万世帯達成を目前に、次の時代を担う青年へ広宣流布の使命を託すときだったといえます。宣言に至るまでの道のりを、分水嶺と思われる昭和25年から小説人間革命を辿っていきたいと思います。

戸田城聖にとって昭和25年から昭和26年の数か月は、事業の失敗による清算事務と国法との戦い、そして会員への影響を避けるため創価学会理事長を辞任した最も苦しい時期でした。
最も重要だと思うのは、昭和25年8月24日、戸田城聖が創価学会理事長を辞任したとき、山本伸一は、戸田先生を師匠と決めていたこと。また、戸田城聖も伸一を弟子と決めていたということです。

第4巻「怒涛」の章から
「先生、今度、三島さんが理事長になると、私の師匠は三島さんになるんでしょうか?いや、それは違う!苦労ばかりかけてしまう師匠だが、君の師匠はぼくだよ」
これでいい。信用組合が潰れようと、先生が理事長をやめようと、先生と自分との一線が狂わないならば、なにが起きようと、かまったことではない。

この時期に、戸田城聖は未来を見据えて伸一を育て、伸一は戸田城聖を信じることで、戸田城聖が国法にとがめられるならば、身代わりとなり牢獄に入る覚悟になっていました。
一方、学会の幹部は、篩(ふるい)にかけられるように、信心に不純な野心家が離反し、純真なものだけ残りました。

第4巻 秋霜
 二人がつくった、この期間の秘史のなかに、今日の創価学会の発展と存在との真の要因があったといえよう。

転機となる昭和26年1月6日、戸田城聖は事業の整理が最悪の事態となる中、学会、事業そして戸田の家族のことを伸一に引き受けて欲しいと頼み、伸一は一生を戸田に捧げて悔いのない覚悟だと告げます。

第5巻 随喜
「先生、決して御心配なさらないでください。私の一生は先生に捧げて悔いのない覚悟だけは、とうにできております。この覚悟は、また将来にわたって永遠に変わることはありません」
「そうか。そうか。よろしく頼みます」

その後、不思議にも事業の法律的責任が解消し、戸田城聖の法律上の追及も消滅します。
戸田城聖を会長に推戴する機運が高まり、戸田城聖自身も会長就任の決意を固め、昭和26年5月3日、第2代会長に就任します。その後、戸田城聖は、後時を託するために、伸一を中心として昭和26年12月16日に水滸会を結成します。
第7巻 水滸の誓い
今後の青年部の推進のためにも、あの昭和25年秋から26年春にかけての特殊な会合を、今また別の形でつくる必要があることを、戸田は考えていた。
戸田のこうした考慮と、山本伸一の懇望とは、時を同じくして一致した。企画と組織は伸一に一任された。まず『水滸伝』を読破することが決定された時、この会合を「水滸会」と命名することも決定された。

しかし、38名で結成された水滸会は、月2回の会合を重ねて半年を過ぎた昭和28年ころに、安易な姿勢の者がいたために、戸田の怒りをかい、空中分解してしまいます。
戸田城聖の心を知る伸一は、三つの誓いを軸とした宣誓文を申し出て、再編成の水滸会を昭和27年7月21日に再結成させます。
この変毒為薬した水滸会は、昭和31年5月をもって終了し、薫陶を受けた青年は、創価学会の中枢として力を発揮し、更に政界、経済界、教育界、芸術界、その他社会の第一線で活動をするようになります。
昭和29年になると、一般面接は多忙を極める戸田の代理を当たらせるようになり、なおも増え続ける会員の事を思う時、推進力となるであろう青年部、なかんずく伸一に、自分と同じ責任を持たせようとします。

第8巻 推進
 エンジンとスクリューと操舵――この三つの快調な連動が、安全な航海の必須条件とすれば、広宣流布の人材とは、この三種類の人間群に尽きよう。彼はこれまで、エンジンと操舵については心を砕いてきたが、航海に不可欠なスクリューの存在を、あまり意識することはなかった。
 その存在が、実は彼自身であったからでもあるが、忍びよる昨今の疲労が、彼にそのことを気づかせたのである。
全学会の強靱なスクリューは、依然として彼自身に残されている。彼は、彼にかわるべきスクリューの製作に心魂を傾ける時がきていることを、ひとりわが心に問いつつ苦慮しはじめたところであった。
戸田はこの夜、伸一ひとりを相手にして話しているうちに、ある暗示を得た。伸一に、彼にかわるスクリューの真似事をさせてみようと思いついたのである。

こうして昭和29年3月、参謀室が設置されました。室長は山本伸一、主任参謀・十条潔、参謀・森川一正、滝本欣也、入江千佐子、石川英子、十条広子、日野照代の総勢8名でした。
 伸一は、参謀室を広宣流布の立法府として作戦を立て、各部隊は行政機関として行動するとの位置づけで戦いを進めます。

4月29日 合同青年部総会 男子2,500名、女子1,500名
5月3日 第10回春季総会 102,637世帯(昭和26年5月3日当時は1204世帯)
5月9日 総本山大石寺で、結成された30部隊の精鋭5,500名が集い、新しい出発を誓う儀式を行います。この時は雨だったこともあり、戸田からは、「10月に1万名だな、できるか」と問われ、伸一は、「できます。必ずやります。10月には見事な総登山をお目にかけたいと思います。」と即答しています。
 見事10月31日に、1万名を結集した総登山を成功させます。
 翌月、11月7日には、最初の体育大会が、青年部主催「世紀の祭典」として東京、日大グランドで開催されました。
この体育大会は、山本伸一をはじめとする参謀室の意向で、1万名の総登山を果たした青年部員が、愉快な体育大会で肉体の錬磨をするのも、きわめて有意義な行事だとして開催されました。ただ、この祭典は、理事室の了解が得られず、直接戸田先生の許可を得たうえで、青年部の全責任で独自に企画・運営をし、予算までも自ら捻出しています。
体育大会は、翌年以降も開催されています。
昭和30年9月11日 第2回青年部体育大会「若人の祭典」東京 日大グランド
昭和31年9月23日 第3回青年部体育大会「若人の祭典」東京 日大グランド
昭和32年9月8日 第4回東日本青年部体育大会「若人の祭典」横浜市 三ツ沢グランド
※この第4回東日本青年部体育大会で、原水爆禁止宣言が発表されました。

第2回青年部体育大会の折には、戸田先生は、「若人の祭典」の地方開催を考え、白木義一郎大阪支部長に伸一と相談して、関西でもなるべく早く開催するよう提案しています。以後、「若人の祭典」は、各地に広げられ、後に体育祭、文化祭へ発展していきます。

大道を歩むの原水爆禁止宣言三十周年にこう記されています。
「この宣言によって、創価学会の平和と文化の運動路線は、明確に決定づけられた。青年部による国連への核廃絶一千万の署名簿の提出、近くは「アポリション2000」への1,300万の署名活動、ニューヨークの国連本部やモスクワ、北京など世界各地での「核の脅威展」「戦争と平和展」の巡回開催など、すべては、この宣言の精神から生まれたものである。
学会の平和運動は粘り強く続けられ、世界へと輪を広げていった。民衆から決して遊離しなかった。それは〝人生の師弟″という絆に、どこまでも立脚してきたからである。人生の師という
不動の基軸をもったがゆえに、右顧左眄(うこさべん)することなく、自己中心にも陥らなかった。
運動の動機が師弟に徹しているから、利害や売名などに、いささかも流されない。師と同じ
精神に立ち続ける限り、道は不変であり、永遠なのである。
「原水爆禁止宣言」の卓越性は、人間生命に巣くう魔性と戦うことを説いたことである。魔性の克服は、為政者、民衆を問わず万人にとって自らの課題である。この人間革命への挑戦こそ、最大の「ソフト・パワー」の発揮なのである。

平和運動の原点を振り返り、原水爆禁止宣言を遺訓したことの重大さは言うまでもなく、「社会とのかかわり」が大切だと再確認することができました。また、弟子が師と共にという覚悟を決め、師の心を我が心とすることが、師弟不二たらしめるのだと思いました。なにより、弟子の姿勢が問われていることを強く感じました。
今日、平和運動の原点である原水爆禁止宣言の日を、自身の平和に対する原点の日と捉えて、平和について学び考えたいと思いました。
最後に、杉並区の主婦が署名運動で社会を動かしたように、ひとりの小さな声、ひとりの行動から、すべてが始まることを心に留めていきたいと思います。
以上

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