【投書】教学要綱 説明会の顛末と今後

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投書者:創価大学30期 上野 大一

私は、6月6日に「所沢問答に寄せて」と題し、初めて投稿させていただいた。このサイト運営については何も知らず、運営にかかわる方々には大変に恐縮の限りであるが、再びこの場をお借りしたい次第である。

前回の投稿の最後、地元である東京都荒川区の地において「教学要綱に関する説明会の開催を訴えていく」と綴ったのであるが、あれから1ヶ月が経ち、その経緯と所感をご報告させていただきたい。

私は、6月6日の投稿と同時に、荒川区の総区幹部の方々に、説明会の開催を要望するメールを送信した。それを受け、すぐに総区の最高幹部から要請があり、6月13日、地元会館内で懇談する運びとなった。

懇談した幹部には、一年以上前より、私の教学要綱に関する疑問をぶつけており、毎回平行線に終わっていた。この懇談でもそうなると思ったが、改めて、教義改変の重大性(特に、三宝改変と、発迹顕本の解釈変更)を主張した。

特に日蓮大聖人の発迹顕本に関しては、教義の根幹中の根幹にあたるため、従来の解釈と教学要綱の「釈尊から弘通を託された上行菩薩としての役割を果たす立場」という解釈を対比させ、明確な見解を求めた。回答は「時代に合わせて変えたもので、問題ない」であった。

続いて、その幹部から何度も「学会批判が多く掲載されている自活サイトに、学会の有役職者が投稿するのは間違っている。投稿を取り下げないのか」とあった。私は「投稿は自分の意思でやった。言論の自由があるので問題はない。取り下げる気はない」とお伝えした。

また、こちらで論考を発表されている図斉氏との関係を問われ、「学会の役職を解任になった者に賛意を示すのは問題である」といった発言が何回もあった。私は「図斉氏のことは存じ上げておらず、氏が発信している論考に賛同しているだけ。役職解任のことは、詳細が分からないので、判断できない。牧口先生は『認識せずして評価するなかれ』と言われている。逆に、図斉氏と学会双方の意見を踏まえた上で、図斉氏への処分は正しいと言われているのか」と質問すると、「確認はしていない。自分は学会における役職解任の重さを知っている。創価学会が宗教法人として決定したことを正しいと信じている」との回答であった。

このような感じで、懇談は終始平行線で終了したのだが、進展もあった。私のそもそもの要望である「教学要綱に関する説明会の開催」については、要望が正式に受理され、後日、開催の可否についてフィードバックをもらうことになったのだ。

懇談後、音沙汰がない日々がしばらく続いたが、私にとって転換点となる事が起こった。それは、6月25日付聖教新聞の「教学部教授補登用講座のために」と題した開目抄講義のための教材テキスト掲載である。

まず、この記事を一読し強い違和感を覚えたのは「発迹顕本」という文言が、一切ないことであった。開目抄は「人本尊開顕の書」とされ、そのように位置付ける根本理由が、大聖人の発迹顕本である。それを説明しなければ、開目抄講義としては「画竜点睛を欠く」と言わざるを得ない。

それに加え、教学要綱の「日蓮大聖人は、釈尊から末法の弘通を託された上行菩薩の自覚に立った立場」という箇所が引用されていた。釈尊から弘通を託されるということは、法は釈尊の所有となる。これは兼ねてより問題視していた教学要綱の教学であったが、2023年11月の発刊以来、明確に会内に周知されることはなく、事実、内容はもとより発刊自体も知らない会員が殆どという状況が、かれこれ2年半ぐらい続いていた。それが、今回、学会教学の正式なテキストとして、聖教新聞を購読する全会員の目に留まることになったのだ。

明確な説明を欠いた状態でこの教義を広く会員に徹底することは、日蓮大聖人を「根本の仏」と仰ぎ、広布のために戦ってきた、これまでの学会の歴史を根底から覆すことであり、それはとりも直さず、創価三代会長の御指南に、悉く違背することになり得る。「これは大変なことになった」と感じた。

私は6月13日に懇談した幹部に、聖教新聞の記事を添付し、「この記事を読むと、日蓮大聖人は、釈尊の弟子に留まることになります。明確な説明をお願いします」とラインで連絡し、併せて、説明会開催の可否はどうなったのかと、質問した。

暫くすると電話がかかってきて、また会館で懇談したいとのこと。私は「まず、説明会開催の可否をお願いします」と伝えたが、「それも含め、会って話す」の一点張り。仕方なく了承し、急遽、翌日の6月30日に地元会館で懇談することとなった。

そこで、幹部からは「教学要綱の説明会は開催できない。なぜなら、自活サイトなる学会批判サイトに投稿する者の要望など、きけないからだ。学会において、副支部長という役職を預かるものが、このサイトに投稿するのは間違っている」と説明があった。

私は、説明会不開催が総区の正式決定であることを確認した上で、「そもそも、学会の最重要教義である、三宝、発迹顕本、人本尊、法本尊、人法一箇などが大きく変わっており、そこに対して、明確な説明がないのが問題である」と、反論した。

事実、学会批判をする人たちの中には現役学会員も数多くおり、その批判内容は、学会を想ってのことである。日蓮大聖人は、中国唐時代の書「貞観政要」をご愛読されたと伝えられるが、この書の肝要は、「わが身を糺すこと」そしてそのために「臣下の諫言を良く聞き入れること」。幹部としては「批判サイトだから」と一刀両断にするのではなく、まずは批判内容の理解に努め、場合によっては、建設的な解決を共に模索するのが正しいあり方ではないのか。

そのような思いも届かず、前回同様、懇談は平行線をたどった。

私は、さらに新聞に掲載の教学要綱引用と、池田先生の開目抄講義を声に出して読み上げ、「これほど、先生が重要だとされた発迹顕本が開目抄の講義にないのは、いかがなものか」と、問いただした。

少々長くなるが、池田先生の開目抄講義の該当箇所を引用させていただく。

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「開目抄講義上」2006年発刊 (16頁〜18頁)

発迹顕本と「開目抄」

 さて、大聖人は先の御文で「開目抄」御執筆の動機について「日蓮の不思議を留めておこうと思い、『開目抄』を構想した」と仰せられています。留められるべき「日蓮の不思議」とは、その最大のものが、竜の口の法難の時の「発迹顕本」であると拝察できます。
 この時、大聖人は凡夫という迹を開いて、内証に永遠の妙法と一体になった自在の御境地である久遠元初の「自受用報身如来」の本地を顕されました。
 大聖人が発迹顕本されることによって、凡夫の姿のままで仏界の生命を現す「即身成仏の道」が万人に開かれたのです。
 「開目抄」につぶさに示されているように、大聖人は相次ぐ大難を乗り越えられ、障魔を打ち破る激闘のなかで、発迹顕本という「生命根本の勝利」を勝ち取られたのです。
 私たちも、いかなる障魔も恐れず、勇気ある信心を貫けば、何があっても無明を破り、 法性を顕す自分自身を確立することができる。それが、私たちの発迹顕本です。そして、 この「我が発迹顕本」が一生成仏を決する根本になるのです。
 「一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し」と仰せのとおり、日蓮大聖人の発迹顕本は、末代のあらゆる凡夫に通じる成仏の「根本原理」を示されている。また、その「証明」であり、「手本」なのです。
 妙法への揺るがぬ信があれば、万人が、自己の凡夫の肉身に、宇宙大の境涯を広げることができる。
 いわば、末法の全民衆の発迹顕本の最初の一人となられたのが日蓮大聖人であられる。そして、日蓮大聖人は、御自身の発迹顕本を証明されるために、また一切衆生が発迹顕本するための明鏡として、御本尊を御図顕なされた。
 まさに、大聖人は、全人類の柱です。一切衆生が仏性を開いていけるのは、日蓮大聖人の発迹顕本のおかげだからです。この点にこそ「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」「日蓮は日本の人の魂なり」と仰せの最も深い意義があると拝せられます。
 「開目」とは、このように「大聖人に目を開け」と呼びかけられているのです。

(引用終わり)
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幹部からは、「問題なし、自分は違和感なし」という、驚きの返答であった。

私は「教学要綱は、変更点に関し明確な説明がないのであれば、『謗法』と断ずる以外にありません。そして、『自活サイトに投稿した』という理由は全く的外れであり、説明会不開催という決定に関与した総区幹部は、先生の弟子ではありません」と、はっきりとした声で伝えた。

そして、最後、「益々声を上げていきます。自活サイトにも投稿するし、総区幹部へのメールも継続します」と申し上げ、懇談は終了となった。 

「創価学会は宗教界の王者である!」と叫ばれた戸田先生。教義は、宗教団体の生命線である。同会員からの教義に関する質問に対し、何ら明確な説明ができず、組織の論理でしか正邪を判断できない。そのような姿は、到底「宗教界の王者」たる団体の幹部にふさわしいものとはいえない。私は暗澹たる気持ちになった。

懇談後、自分としてどうするのか思いあぐねていたところ、もう一つの重大事があった。先の聖教新聞に掲載されたテキストの開目抄講義の動画がオンラインで公開されたのだ。

動画を視聴し、私は、心の底から由々しき事態だと感じた。なぜなら、原田教学部長の口から、先の教学要綱の引用が読み上げられたことに加え、同書の187頁 後注108にある解説を引用した追加の説明があり、この内容が重大な問題を孕んでいるように思えたからだ。

ここにその全文を引用する。

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(教学部 教授補登用講座 第1回「開目抄」動画 32分09秒~35分04秒)

日蓮正宗(日顕宗)の教学では、『御本仏』という表現には、日蓮大聖人が根本の仏であり、久遠実成の釈尊もその垂迹、仮の姿であるという意を含んでいますが、これは大聖人の御書には見られない解釈です。池田先生はよく人間を離れて仏はいないと語られました。死身弘法・不惜身命で戦う一人の人間の内面にこそ、尊厳なる仏の境涯が現れるのです。それが人間主義の仏法です。

事実、日蓮大聖人は、釈尊を根本の仏として最大限に敬い、その教えを正しく拝したうえで、釈尊から滅後悪世の正法弘通を託された上行菩薩の使命を自ら果たし、御自身が覚知した『法華経』の肝心である南無妙法蓮華経を、末法の人々を救う法として確立されました。そこには明確に、『釈尊一法華経一日蓮大聖人』という仏法の正統な系譜を見いだすことができます。

釈尊も大聖人も、根本の法である南無妙法蓮華経によって仏になったのであり、そこに、どちらが本仏か迹仏かなどといった、上下関係や勝劣関係があるわけではありません。人間に優劣を付けないことと同じです。むしろ大聖人が御書で示されているのは、末法万年の一切衆生を救うための教えを弘めているのは誰か、という末法の教主の存在です。

池田先生は、法華経における上行菩薩への付嘱について『生死一大事血脈抄講義』でこのように述べられています。『単なる仏から菩薩への付嘱ではなく、仏法の大転換、そして、教主の交代を意味しています。』この講義でも示されているように、日蓮大聖人は、末法の人々を成仏に導くために、釈尊に代わる末法の教主として、成仏の根本法である南無妙法蓮華経を三大秘法として説き示し、末法万年にわたる人類救済の法を確立されたのです。

そのことをもって、創価学会が日蓮大聖人を『末法の御本仏』と仰ぐことは、先ほど述べた通りです。創価学会は、宗門のように、超越的存在として大聖人を神格化するのではなく、どこまでも実在する日蓮大聖人のお振る舞いの中に『末法の御本仏』の実像を見ているのです。

(引用終わり)
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この原田教学部長の解説は、仏法史上、歴史に残る”迷文”であると思う。私には、矛盾だらけの説明、滑稽とさえ思えた。開目抄という重書中の重書の解説で、学会教学部のトップが、ここまで支離滅裂になっているとは。

この箇所への反論は幾重にもなすことが可能であるが、開目抄という書でこの解説がなされたことを踏まえ、少々述べさせていただきたい。

開目抄は、その前半の五重相対で、各時代の諸宗派の論師とその思想を「相対」して”勝劣”をつけ、内外、権実、本迹、と順々に上がっていき、最高の種脱相対にいたる。そこで、釈尊脱益の仏法は衆生を救う力を失っており、末法の正法は諸仏成仏の種である「文底の一念三千」であることが示される。つまり、種勝、脱劣である。そして、後半では、その文底の一念三千を説く下種の教主が一体誰なのかがテーマとなり、度重なる反証を越え、それが日蓮大聖人ご自身であることが明かされるのだ。

原田教学部長は「釈尊も大聖人も、根本の法である南無妙法蓮華経によって仏になったのであり、そこに、どちらが本仏か迹仏かなどといった、上下関係や勝劣関係があるわけではありません」と述べている。勝劣をつけるのが相対であるので、教学部長は、五重相対、なかんずく妙法に言及しているので、種脱相対を開目抄講義内で自ら否定していることになる。これは、人本尊開顕の書たる開目抄の眼目を、教学部長自ら否定しているに等しい。こんな破綻した講義を受け入れることなど、到底できる筈もない。

話を戻させていただく。

開目抄講義の動画の視聴後、私は茫然自失、このことで頭がいっぱいとなった。教学要綱に関する疑問が今後解消されることは、恐らくない。そして、私自身が現時点で間違っていると考える教学要綱の教義が、会内に徹底されはじめている。。。これは、仏法の破壊であり、学会の破壊であり、師敵対ではないのか。。。

私は、まず自分の考えを幹部の方々に知ってもらおうと、一気呵成に文章を書きはじめた。以下、その要約である。

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<問題提起>

・創価学会教学要綱に関する説明会は開催しない件について

全く的外れである。自活サイトにある批判の多くは、教学要綱に起因するもの。説明会を開催し、教学要綱の正義を堂々と立証すれば、自活サイトの批判を鎮めることができる。なぜ、そのような場を避けるのか?

・日蓮大聖人の発迹顕本について

大聖人の発迹顕本は、凡夫成仏の手本であり、この義を失えば、我々の成仏はない。現代的には、人間革命、宿命転換の教義的基盤を失うことになる。そのような教義変更を認めてもよいのか?

・「釈尊から弘通を託された上行菩薩の自覚に立った」という解釈について

この記述は、身延・日蓮諸宗と全く同じである。この点を他宗に指摘された場合、どのように反論するのか?

・開目抄講義の動画について

日蓮大聖人を神格化したことなど、かつてあったのか?

そして、日蓮大聖人を根本の仏としてどこまでも敬い、御指南くださった池田先生は、間違っていたのか?

<現時点での、自身の教学要綱を取り巻く認識と判断>

・創価学会教学要綱の池田先生監修はウソである

真に池田先生の監修であるならば、監修過程であった先生のご教示を堂々と説明してもらいたい。それができないのであれば、そう判断せざるを得ない。

・教学要綱は師弟違背

教学要綱は、師弟違背しており、大聖人仏法の正しい教義に反する謗法を犯している。
故に、この書を公式教義書とする限りにおいて、学会は邪教となる。

・三宝改変は「師子の身中の虫」によって成される

御書に「三宝を護る者にして転た更に三宝を滅し破らんこと師子の身中の虫の自ら師子を食うが如し」(御書全集81頁)という大聖人の御指南がある。この御文に照らし合わせるならば、教学要綱で三宝改変した原田会長及び執行部は、悪鬼入其身、師子身中の虫と断ぜざるを得ない。

・教学要綱教義の会内への周知について

教学要綱の教義を組織に浸透させることは、謗法の害毒を会員の皆様に飲ませることと同じである。幹部の皆様においては「何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し」(御書全集1056頁)の御金言を、何卒ご留意されたい。

<終わりに>

自分の命をかけて、正しい信心を証明するために戦っていく決意をしている。また、どのような処分があろうと、莞爾として受けていく。仏法破壊の前で黙っているのは悪であり、恐るべきは与同罪である。

(要約終わり)
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以上の文章を認め、7月3日の夜に荒川総区幹部宛にメール送信した。現時点では、まだ何もないが、今後、何かしらの処分はあってしかるべきだと覚悟している。

私は、学会の組織は、広宣流布実現のためには、絶対に必要であると考えており、組織の存在自体を否定するものでは全くない。事実、自分自身、これまで全身全霊で学会活動に力を注いできた。しかし、その組織の根幹をなす教義が狂ってしまえば、そこに正義があるはずもない。いかなる大木も、根っこが腐れば、いずれ倒壊してしまう。

問題は、教義変更を遂行した執行部に加え、その狂いがわからない会員があまりにも多いことである。しかし、成仏の問題は「知らなかった」ではすまされない。結局、最後は一人ひとりの信心にゆだねられているのである。間違った教義に盲目的につき従い、それにより受けるであろう様々な結果を考えると、たとえ理解されずとも、まずは問題点を広く周知させ、明確な線引きをすることこそ、求められているのではないか。

そして、それは、

「創価三代会長が示した教義を、いかなるリスクを取ってでも選び取るのか」

それとも、

「波風の立たぬ教学要綱の誤った教義を基にした、組織をとるのか」

という、二者択一、分水嶺を、浮かび上がらせるだろう。そして、その時に、真の信心の力が再び現実に証明されるのではないか。そのような考えを巡らせて、今に至っている。

そして、今後としては、自分の五体を晒し、堂々と、ありのままの命でぶつかっていく覚悟をした。

何か進展があれば、また、投稿させていただきたい。また、凡愚凡才の身で大変恐縮の限りではあるが、何かしらのテーマで、文章も書いてみたいと考えている。その際は、またこちらで発信させていただきたく、お許し願いたい。

創価大学30期 東京都 荒川区在住 上野 大一
(ご意見、ご感想等ございましたら、happy.smokykun@gmail.com までお願いいたします)

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