【投書】弟子の真価が試される最高の時

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投書者:くろまにあ
 

宗門問題の頃は、相手が法華講など明確な「敵」として認定できたため、戦いの構図はかえってスッキリしていた。しかし、いま私たちが向き合うべき相手は、大きく二つに分かれている。

一つは、師を裏切り、指導の改竄を繰り返して教義までも変え、創価三代の思想を断絶させようとする本部執行部。もう一つは、先生が誰よりも大切にされた弟子でありながら、悪知識にたぶらかされてしまった一般会員の方々。
立正安国論の文に照らせば、前者の悪に対しては「呵責・駈遣・挙処(責め、追払い、悪行を挙げる)」をもって厳格に責め、排していくことが極めて重要であり、後者の会員に対しては「布施や悪への加担を止めさせる」ことこそが善行となる。

しかし、この後者の戦いにおいて、相手の「心に届く声」を響かせることが極めて難しくなっている。
なぜなら、本部は長きにわたって教学を軽視し、形骸化した会合の押し付けと、相次ぐ打ち出しによって多忙化させてきたからである。これらは、私たちが懇談を通して池田思想の真意を探究する大切な機会を奪ってきた。「組織のために人がいるのではない。人のために組織があるのだ」という根本の指導は蔑ろにされ、会員は「会」という箱に縛り付けられている。その結果、「会」に留まること自体が目的化するという、本末転倒の事態に陥っている。

こうした一種の思考停止とも言える平穏な環境下では、御書や先生の指導を通してどれほど正論を語っても、組織の実情に重ね合わせ、主体的に考える人は極めて少ない。私たちが正論で強く訴えれば心を閉ざし、逆に相手の心を理解しようと対話を試みれば、警戒して距離を置かれてしまうのが実情だ。これは、まさに寿量品に説かれる「病子」の姿に重なる。

それでも、現在の会員の多くは、組織に従いながらも先生から直接薫陶を受けた世代。多くの人の心には、正しい思想の種が必ず残っていると信じる。
だが、現在の本部の指導は「創価学会仏」を過度に強調し、「会そのものに血脈がある」と植え付けているため、組織を離れる者や疑問の声を上げる者を、短絡的に「退転」「反逆」と見なしてしまう。そこには、道理に基づいた善悪の判断も、仏法の正当性も存在しない。

今後、先生から直接学んだ世代が去り、「師と共に戦った」という生の実感を持たない世代が主流になった時、いまの本部の体制に違和感すら抱かない人ばかりになってしまう。その時代に入れば、どれほど御書や三代の指導を引いて正論を語っても、かつての顕正会のように盲目的になり、何の検証もせずに「今の会長(本部)はそんなこと言っていない」と一蹴され、すべて「外部からの批判」として排斥されていくだろう。私はそんな未来を激しく憂慮している。

現会員と向き合う際、心を閉ざし距離を置かれてしまう現実。だからこそ、自らの教学を磨き、慈悲をもって接する「相手の心に届く声」を模索する折伏の精神こそが、私たちにとって最も人格を磨かれる戦いとなる。

魔軍が勢いを増し、池田思想の血脈を断絶しようとしているのは、まさに「今」である。「師と共に!」と戦ってきた先達が多く残る今だからこそ、語り伝え、残せる言葉があるはずだ。
広布のバトンを受け取った弟子の戦いこそが、未来の断絶を食い止め、時代を変えていく。
今こそ、弟子の真価が試される最高の時なのだ。

【投書】弟子の真価が試される最高の時” に対して1件のコメントがあります。

  1. 虹さん より:

    くろまにあ様

    大変考えさせられるご投稿でした。

    私自身、正論だけでは人の心は動かないと痛感しています。
    いくら過去の指導を引用しながら現状の問題点を指摘しても、「自分事」として受け止められず、「今の創価学会が正しい」という前提の中で思考が止まってしまう。
    そのような現実を感じることが少なくありません。

    その背景には、教学の軽視や、上意下達を善と履き違えた組織運営の硬直化によって、会員一人ひとりが主体的に考え、語り合う機会が失われてきたこともあるように思います。
    実際、自主的な学習会や対話の場は「組織内組織」と見なされやすく、自発能動の精神が十分に発揮されにくい現実があります。

    だからこそ私は、現在の戦いの核心は、「相手の心に届く声」を祈り湧かせる智慧にあり、その言葉での対話こそが、「共感による動執生疑」ではないかと感じております。

    正論や批判だけでは、人は容易に心を閉ざしてしまいます。
    しかし、相手の苦悩や葛藤に寄り添い、「なぜだろう」と自ら考える契機を生み出すことができれば、そこに動執生疑の芽が生まれる。

    私は、この粘り強い対話こそが今の時代における折伏の一つのあり方であり、最も難しく、最も尊い弟子の戦いではないかと感じています。

    学会員が組織や幹部の言葉を無条件に受け入れるのではなく、弟子として自ら考え、池田先生の指導を基準とし、自らの足で立ち上がり、自ら歩み始める。
    その主体性を呼び覚ますことこそ、「共感による動執生疑」の本義と思っております。

    先生から直接薫陶を受けた世代が多く残る今は、まさに歴史の証言者がいる最後の時代とも言えます。
    私たち一人ひとりが体験や記憶、そして先生の指導を語り残していくことが、師の望まれた未来への継承になると思います。

    『慈悲をもって接する「相手の心に届く声」を模索する折伏の精神こそが、私たちにとって最も人格を磨かれる戦いとなる。』――その一文が特に胸に響きました。

    貴重なご投稿、ありがとうございました。

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