原田講義への批判文書が後を絶たない!

 教学要綱、および原田教学部長講義に対する批判文書が各方面から続出している。そこで今回は遠藤氏に続き、自活メンバーから寄せられた新たな破折文書を紹介したい。

原田教学部長講義を破す

 去る2月8日、原田会長の息子である原田星一郎教学部長が講師となり、「教学部教授講座」が開催された。内容は「開目抄」の講義という体裁だが、その目的は「教学要綱」の徹底だったようだ。2023年11月、池田先生の逝去を待つかのように発表された「教学要綱」は教義の大幅な変更を図ったものだが、教団の最重要問題であり信徒(会員)の信仰の命脈ともいえる「教義」の改定を、末端会員までの丁寧な説明もせず、高価な書籍に仕立てて販売するという、まるで「興味のある奴は買って読め」とでも言わんばかりの傲慢・不誠実な発表だった。そのため多くの会員がその内容を知らず、意識の高い一部の会員の間で疑問や不審が囁かれる程度だったが、今回は教授資格を持つ会員を集めての教学部長による肉声講座だったため、受講して初めて耳にした多くの会員から、「これはおかしい!」「これまでの教義はどうなるんだ!」といった抗議の声が本部に殺到したようだ。平成生まれの青年部ならいざ知らず、池田先生と共に昭和を闘い貫き、先生の正当な教学指導を骨髄に学んだ学会員にとっては到底受け入れ難いものであったろう。昨日までの教義信条が全く覆されていることを知って、突然目を覚まされた思いだったに違いない。それが「開目抄」の講義だったとはまさに皮肉な話である。

【先生の講義に「教学要綱」を滑り込ませる欺瞞】

 さて、では教授講座の内容を解説してみたい。大半は「開目抄」の講義であり、その内容は2004年以降に「池田名誉会長講義」として大白蓮華に掲載された、「開目抄講義」「生死一大事血脈抄講義」「「世界を照らす太陽の仏法」などを再説したものである。それだけなら態々教授陣を呼び集めて講義するまでもなく、講義録を読めば済む話であり、また敢えて目くじらを立てる話でも無いのであるが、問題はそれらの講義の間に狡猾にも「教学要綱」「男子部教学室論考」を滑り込ませ、それがいかにも先生の思想であるかの如く装っていることである。しかもよく読めば、先生の講義の引用も決して正確ではなく、微妙におかしな私見が混じりこんでいる。にもかかわらず冒頭の挨拶では、
「どこまでも、広宣流布のための教学です。日蓮大聖人と学会員を、また創価の三代会長と学会員をつなげるための教学こそ、本当の教学であります。」
と、臆面もなく語っている。戸田先生や池田先生の教学指導と全く異なる邪義を述べながら、「創価の三代会長と学会員をつなげるための教学」とはよく言ったものである。「つなげる」どころか実際には分断・不審・敵対である。これを須田氏流にいえば、言葉だけの偽装師弟論に他ならない。意識ある聴講者はこうしたところに反応して抗議に及んだのである。

【お粗末な講義】

 では具体的に問題部分を取り上げてみよう。
講義ではまず「開目抄」の題号の意味について解説するが、その内容は2004年5月より大白蓮華に連載された「池田名誉会長の開目抄講義」を要約したものである。この講義がいつどこで、誰に対して先生が講義されたものか全く不明であるが、それはそれとして、その講義に則って一通り「開目」の意義を語ったあと、「主・師・親」の解説に入ると俄かに、「教学要綱」を引用して、
「(大聖人は)釈尊から法華経の肝心である南無妙法蓮華経を託された地涌の菩薩であるという自覚をもって、末法の一切衆生の成仏を可能にする三大秘法を確立されたのである」(原田講義)
と結論付けている。ところが、次には「男子部教学室論考」を引用して、
「ご自身が覚知した法華経の肝心である南無妙法蓮華経を、末法の人々を救う法として確立してくださいました」(原田講義)
と述べるのである。南無妙法蓮華経が一方では「釈尊より託された」といい、一方では「ご自身が覚知した」ものだという。いったいどっちなのか?託されたものなら自身が覚知する必要はないし、自身が覚知して確立したのなら託されたものではないことになる。こうした未熟にして不徹底な「にわか仕立ての迷走新教義」の矛盾にも気付くことなく、ただ受け売りに終始した教学部長講義なのである。これは上行菩薩がその内証において元より本法を所持・所伝していたことを知らない為の混乱である。さらには、従来の本仏観を真っ向から否定して、
「この御本仏という表現には、日蓮大聖人が根本の仏であり、久遠実成の釈尊もこの垂迹、仮の姿であるという意を含んでいるのですけれども、まあ、実はこれは大聖人の御書には見られない解釈なのであります」(原田講義)
と身延派の主張を追随して、これまでに戸田先生や池田先生が説いてきた本仏観が間違いであったかの如く解説する。御書に直接表現がないからと言うなら、彼らがしきりに強調する「自身上行菩薩であるという自覚」を示す直接表現も御書にはない。まして「久遠元初の自受用身」との表現も御書にはないが、なぜかこちらはチャッカリ使っているのである。そのくせまた一方では「久遠元初の自受用身」が根本の仏を意味するのではないかのような言いぐさである。これでは迷走・悩乱の極みであると言われても仕方がない。

 講義ではさらに「男子部教学室論考」の引用が続き、その根本的な錯誤部分を再説して、
「釈尊も大聖人も、根本の法である南無妙法蓮華経によって仏になったのであり、上下・勝劣関係にあるものではありません」
と断言する。つまり「根本の法」はあったが「根本の仏」はないとのことである。これについては前回「男子部教学室論考を粉砕す」で詳しく破折解説しておいたのでここでの重複は避けるが、あろうことか教学部長さまはこれに輪をかけるかのように、
「(釈尊と大聖人に優劣をつけないのは)人間に優劣をつけないことと同じであります」
とのたもうたのである。これでは法門も教義もあったものではない。「人本尊開顕の書」ともいわれる「開目抄」の講義でこれでは抗議が殺到するのも無理はない。これはおそらく須田晴夫氏の「これでは同じ人間だから優劣はないと言っているようなもので法門でも教学でもない」との批判に対して向こうを張ったつもりだろうが、開いた口が塞がらないとはこのことだ。それなら釈尊と提婆達多にも優劣はなく、法然と日蓮にも優劣はない。人を差別しないという一般倫理と仏法教義の本迹勝劣論を一緒くたにしてどうなるものか。これが現創価学会教学部長のレベルであり実態なのである。

 次に原田講義は、大白蓮華連載の「生死一大事血脈抄講義」(2006年7月より連載)から
『単なる仏から菩薩への付属ではなく、仏法の大転換、そして教主の交代を意味しています。』
との一節を引用して、「ご本仏」と仰ぐ理由を単に「教主の交代」で説明しようとするのであるが、これは前後の文章を隠した切り文で、これでは何故「教主の交代」が必要であったか、何故釈尊ではダメなのか、何の説明にもなっていない。尤も「釈尊と日蓮に本迹等の優劣はない」と豪語する彼らにとっては甚だ都合が悪いので敢えて隠したのであろうが、血脈抄講義の本文には、
『この付嘱が、「本果妙の仏から本因妙の仏へ」、そして「本果妙の仏法から本因妙の仏法へ」の大転換を意味しているということです。すなわち、これは、単なる仏から菩薩への付嘱ではなく、仏法の大転換、そして教主の交代を意味しています。そして、そのように拝したときに、ここで仰せの南無妙法蓮華経の深義が明らかになるのです。
「本果妙」とは、究極的な成仏の果を指し示す仏や教えをいい、釈尊が説いたとされる教法はすべて、遠く至高の本果を指し示す本果妙の仏法として位置づけられます。「本果妙」の仏や教えは、ある意味で現実の人間を超えた仏の至高の境涯を指し示すものであり、その境涯がわからない現実の人間にとっては、結局、譬喩としての意味しかないことになります。
これに対して、「本因妙」は、究極的な成仏の原因を説きあらわす仏や教法を指します。(中略)この「因果倶時の妙法」こそ、真実の「仏種」です。釈尊も本来は、この「仏種」を悟り、成仏の因果を体現して仏になったと言えます。しかし、釈尊の名をもって説かれた多くの教法は、「仏種」そのものを説かず、本果を指し示す本果妙の仏法にとどまっています。(中略)このように法華経の付嘱の本質は、「本果妙から本因妙へ」という教主の交代と教法の転換を告げることにあります。』(血脈抄講義)
と、「教主交代」の意味や意義がはっきりと述べられている。そこには本因妙・本果妙の違いを挙げて、「本果妙」の仏(釈尊)やその教えが比喩としての意味しかないことを明かして教主(仏)の優劣を判じ、「因果俱時の妙法」(大聖人の妙法)こそ真実の「仏種」であることを示した上で、それが釈尊の教法には説かれていないとして、教主・教法共の優劣を説明されているのである。単なるリレーのバトンタッチとは訳が違うのだ。

 続いて講義を「開目抄」に戻した原田氏は、
「釈尊の説いた結論の教えが法華経であり、それが明かされた一念三千の法門は法華経本門の寿量品の文の底にあるということが示されます」(原田講義)
と述べる。これによれば寿量品の文底にある「一念三千」とはどこまでも釈尊の一念三千ということになる。釈迦・日蓮に勝劣は無いとする彼らにとってはそれでいいのだろうが、日蓮大聖人の一念三千こそ寿量文底の真の事の一念三千であるとする我々にとってはとても承服できるものではない。いったいその一念三千は本門寿量品のどの文の底にあるというのであろうか。本門寿量品という限り、迹門の法理としての一念三千のことではない。とすれば仏身における事の一念三千ということになるが、この説明ではどう見ても釈尊の一念三千としか見当がつかない。先の血脈抄講義にもある通り、「真実の仏種」こそが真の一念三千であり、それはまさしく日蓮大聖人の事の一念三千である。これはほとんど従来の基礎教学のレベルの話であって、池田教学を学んできた方々にはそれこそ「釈迦に説法」なのでこれ以上語る必要はないだろう。平成以降生まれの青年部には「騙されないように」と願うだけにとどめておくことにする。

 さて、これ以降の講義は、受難や誓願といった「開目抄」の文脈を追った講義で、先行講義録の再説であり、従来から語られてきた内容であるから取り立てて言うことはない。ただ一部「発迹顕本」の解釈について看過できない説明があるが、これには少し複雑な問題が絡んでいるので、次回に稿を改めて記したいと思う。
(いっこく堂)