開目抄について④

2023(令和5年)3月度オンラインスタディで講義して頂いた内容を、ご本人の了承のもと掲載させて頂きます。


グリグリ著

開目抄について④

皆様、こんばんは。それでは始めさせていただきます。

本迹相対を始める前に、前回の「権実相対」についてのおさらいと補足をしたいと思います。

(1)権実相対の概要とまとめ

権実相対は、権教(爾前経)と実教(法華経)を相対して、一念三千の法門は爾前・権教には無く「但法華経のみに有り」としたのが権実相対の骨子(真意)です。

大聖人は開目抄の中で「爾前経の経経には二つの欠点がある。一つは十界の衆生に差別を設けているために十界互具が成り立たず、結果として迹門の一念三千(十界互具)を隠している。二つには始成正覚と言って、釈尊はまだ発迹顕本をしていないために、本門で説かれた五百塵点劫の成道を隠している。しかし、迹門方便品では一念三千・二乗作仏を説いているので、爾前経の二つの欠点のうちの一つをまぬがれたのです」 (趣意、新版66㌻)と述べられています。

この御文にあるように、権教が実教に劣る理由として、大聖人は爾前権教には二つの欠点があると教えられています。

まず一つ目の欠点は、爾前経には「九界は個々別々(差別)のものである」と説かれていて、一般人は六界までであると壁を作り、女性と悪人は成仏できないとされています。そして極めつけは「二乗は絶対に成仏できない(二乗不作仏)」と釈尊は弾喝しています。また、九界の代表である菩薩の方では「仏界などは今世で体得できる境智ではなく、歴劫修行の果てにようやく到達できるものだ」と考え、九界と仏界は完全に断絶していて、九界即仏界・仏界即九界の義もありません。したがって爾前経の教えでは、十界互具は成り立たず、結果的に一念三千が隠れています。

二つ目の欠点は、釈尊は始成正覚の立場――つまり、インドに生まれて今世で始めて覚ったと述べており、まだ発迹顕本をしていないので「三妙合論」が成立していません。

三妙合論とは、

① 釈尊は本門で説かれた久遠実成の仏であったこと(本果)
② そして釈尊自ら無始以来、仏界即九界、九界即仏界の生命の当体であったこと(本因)
③ さらにこの娑婆世界こそが仏の常住する世界であること(本国土)

という「本因・本果・本国土」のことですが、大聖人は、爾前経ではまだ「三妙合論」は明かしていないと述べています。これが二つ目の欠点です。

要するに「二乗作仏」が説かれていないということは、九界すべての衆生の成仏は叶わないということですから、人界の中の二乗や、菩薩の中の二乗も成仏しないことになります。しかし実教では、十界の衆生それぞれに十界が互具していることを明かし(十界互具)、女性と悪人と二乗の成仏を説いていますから、十界の衆生は差別されることなく、皆平等に成仏することが出来ます。この「一切の衆生は平等で等しく仏となることが出来る」という説法は、法華経迹門において初めて説かれた教説です。

大聖人は開目抄の中で「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(新版54㌻)と述べられ、法華経迹門(方便品)は、爾前経でまだ説かれていない二つの欠点の内、その一つである諸法実相と十界互具・百界千如が説かれたことによって迹門の一念三千が示されたと教えられています。

権実相対から以降の三重の相対(権実・本迹・種脱)は、「一念三千の法門」を主軸として勝劣が論じられていきますが、爾前権教はこの「諸法実相・十界互具・百界千如」と本門寿量品の「久遠実成」が説かれていないがゆえに実教より劣るというのが、権実相対の結論です。

この権実相対の論争が勃発したのは、天台・伝教が登場した像法時代です。像法時代に入ると、仏教の本舞台はインドから中国に移ります。摩騰(まとう)・竺蘭(じくらん)などの仏教指導者によって、小乗・大乗の立て分けもなく中国に経典が流布された時代です。仏教が中国に流布されたことによって鳩摩羅什(くまらじゅう)などの翻訳者が登場し、経典がインド語から中国語へと翻訳されます。羅什は、経典には「先後・浅深・優劣」があることを仏教徒に教えましたが、仏教徒はやがて南方(三派)と北方(七派)の南三北七に学派が分かれ、自派の教相判釈を競っていました。

このような時代に天台大師が登場します。天台は釈尊の一切経を体系化し、まったく新しい教判(五時八教)を確立して法華経「最高第一」を事実の上で論証しました。

天台はさらにその法華経の中から「一念三千」を取り出して、中国に「一念三千の法門」を定着させました。大聖人も開目抄の中で「一念三千の法門は、ただ法華経の本門寿量品の文の底にしずめたり。竜樹・天親、知ってしかもいまだひろいいださず。ただ我が天台智者のみ、これをいだけり」(新版54㌻)と述べられています。

その天台の論説をまとめ上げ、法華三大部(法華文句・法華玄義・摩訶止観)として完結させたのが、天台の弟子である章安大師です。

日本の伝教大師は中国に渡って天台教学を学び、帰国後、日本天台宗を開きます。この頃、日本も中国と同じく、仏教が何派にも分かれ、論争が絶えない状況が続いていました。そんな中、伝教は諸宗との論争で「法華一乗」を不動のものとします。そして晩年、法華経迹門に基づく「大乗戒壇」を比叡山に建立しました。したがって、天台・伝教以降は、たとえ「一念三千の法門」を知らなくても「法華経(実教)」が最高峰に位置する経典であることは仏教界の常識となっています。

さて、ここからちょっと学問的な話になりますが‥‥

権実相対の教判のあり方「約智約教」

一切経を仏の「智慧」に約し、仏の「教」に約して判定する。

【その理由】
仏はを知り、衆生の機根を知って教えを説くから。

【約智】は、「権智」「実智」の二つ。
【約教】は、「蔵教・通教・別教・円教」の四教。

(権智)権教 → 蔵教・通教・別教
(実智)円教 → 実教

権実相対の教判のあり方は「約智約教」といって、釈尊の八万法蔵、いわゆる一切経を仏の「智慧」に約し、「教」に約して判定するとされています。なぜ一切経を仏の智慧に約すのかというと、仏は時を知り、衆生の機根を知って教えを説くからです。すなわち、今、衆生に「真実の教え(実教)」を説いても、まだ受持する機根が整っていないと判断した仏は、智慧を絞って「真実の教え」を理解させ、受持させるために、方便の教え、権(かり)の教えを四十余年間説いて衆生を誘導していきます。この仏の智慧を「権智」といいます。そしてその後、衆生の機根が整ったと見た仏は「真実の教え」を説きます。これを「実智」といいます。これが約智約教の「約智」の部分です。また、教に約すとは「蔵教・通教・別教・円教」の四教に約し、蔵教・通教・別教は「権教」となり、円教のみが「実教」となります。これが約智約教の「約教」の部分です。

このように、天台は精密にして正確に「権実」を立て分け、「権実相対」を検証して法華経が「最高第一の経典」であることを論証しました。

ちなみに、この天台の立て分けた化法の四教と呼ばれる「蔵教・通教・別教・円教」は、「空・仮・中」の三諦、また三観思想を基準として、仏教の思想内容の高低浅深を四段階に分類した天台独自の思想体系といえます。

【四教の内容】

【蔵教】 小乗仏教のこと。

【通教】 声聞・縁覚・菩薩に共通する大乗仏教の入門的な教え。(前の蔵教と後の別教・円教にも通じる教え)

【別教】 菩薩のためだけに説かれる大乗仏教のこと。
(すべてを差別(隔歴)の立場から見る教え)

【円教】 最高の完全無欠の教え。

四教の内容を簡単に説明すると、

① 蔵教は、小乗仏教のことです。

② 通教は、声聞・縁覚・菩薩に共通する大乗仏教の入門的な教えで、前の蔵教         と後の別教・円教にも通じる教えであることから通教と呼ばれています。

③ 別教は、迷いの生死から脱することを求める菩薩のためだけに説かれる大乗仏教のことで、すべてを差別(隔歴)の立場から見る教えです。

④ 円教は、最高の完全無欠の教えです。

(2) 本迹相対の基準と教判

さて、それでは今回、学ぶ「本迹相対」の教判のあり方は、何に約して勝劣を判定していくのかというと、

【本迹相対は「約身約位」】

天台大師は、

・外用の姿に勝劣があるゆえに「身」に約し、
・内証の体に浅深があるところから「位」に約す

と述べています。
by 法華玄義第七(本門十妙)

「約身約位」といって、天台は外用の姿に勝劣があるゆえに「身」に約し、内証の体に浅深があるところから「位」に約すと述べています。(法華玄義第七、本門十妙)

これは、仏の身を因果に約し、仏の住む国土世間に約して判定するという意味です。それではこの教判を踏まえて「本迹相対」の概要を解説していきたいと思います。

【法華経二十八品の構成】

・前半の十四品は迹門
〉法華経二十八品
・後半の十四品は本門

天台は法華経を「本迹二門」に立て分けています。
迹門・本門ともに「一念三千」が説かれています。
【本迹相対の骨子】
迹門の一念三千と本門の一念三千を相対して勝劣を判定すること。

法華経は全部で二十八品ありますが、前半の十四品を迹門と呼び、後半十四品を本門と呼んで、天台は法華経を「本迹二門」に立て分けています。また迹門・本門ともに「一念三千」が説かれていますが、本迹相対の骨子(真意)は、迹門の一念三千と、本門の一念三千を相対して勝劣を判定することです。
そこで、法華経二十八品前半の十四品が「なぜ迹門になるのか」を理解するために、、前半十四品(迹門)でいったい何が説かれているのかを見ていきたいと思います。

【開三顕一】
・三乗(声聞・縁覚・菩薩)に説かれた教説(爾前権教)は全て方便の教え。
・仏の真意は万人を成仏に導く「一仏乗(法華経)」を説くことにあった。
【迹門】
・開三顕一と二乗作仏による十界互具、また十如実相等による「一念三千」。
・迹門の一念三千(諸法実相)はあくまでも理屈・理論の世界。
・迹門の一念三千は理論はあっても実体がない。
前半十四品を「迹門」と名付け、「理の一念三千」と位置付ける。
【本門】
・釈尊が発迹顕本して「久遠実成」が明かされた。
・三妙合論(本因・本果・本国土)が釈尊(仏身)の身の上に事実として顕現された。
・「理の一念三千」が発迹顕本したことによって釈尊の身の上に事実として一念三千が顕現した。
後半十四品を「本門」と名付け、「事の一念三千」と位置付ける。

まず、はじめに確認したいことは、法華経以前の爾前権教で三乗(声聞・縁覚・菩薩)に説かれた教説はすべて「方便の教え」だったということです。しかしあくまでも仏の真意は、万人を成仏に導く「一仏乗(法華経)」を説くことにありました。
これを「開三顕一」というのですが、この開三顕一と二乗作仏による十界互具、また十如実相等によってほぼ「一念三千」が示されましたが、それはどこまでいっても理論上の話であって、事実の上で、誰かが「これが仏さんの姿である」と示された訳ではありません。迹門の一念三千はあくまでも理屈・理論の世界です。
このように迹門は、一念三千の理論はあっても実体がない――この意味において前半十四品は「迹門」と名付け、「理の一念三千」と位置付けています。

これに対して、後半十四品(本門)は、釈尊が発迹顕本して「久遠実成」が明かされました。すなわち釈尊の本地である「本因・本果・本国土」が、釈尊(仏身)の身の上に事実として顕現されたのです。これを三妙合論といいます。
つまり、理論上の話であった「理の一念三千」が、発迹顕本したことによって、釈尊の身の上に事実として一念三千が顕現したということです。これを「本門」と名付け、「事の一念三千」と位置付けています。

もっと単純に言えば、、一口に法華経二十八品といっても、インドに生まれて始めて成道したという「始成正覚の仏」の立場で説いた前半と、久遠の昔にすでに成道していたことを明かした「久遠実成の仏」の立場で説いた後半とを同列と見なし、同列に論ずることはできないでしょうという話です。

なぜそういう話になるのかというと、後半の久遠成道の仏は、悟りをそのまま体現している仏であるのに対して、前半の始成正覚の仏は、衆生を化導するために「仮(かり)」にあらわした影・垂迹の仏だからです。この「本・迹」の名称自体に、すでに勝劣の評価が含まれていることは、「内外・大小・権実」の場合と同じです。

【本迹の区別】

【本門】
後半十四品は、久遠の仏(本仏の法門)が説いた教え。
【迹門】
前半十四品は、始成正覚の仏(権仏の法門)が説いた教え。
by天台♪

――このことから天台は、久遠の仏、すなわち本仏の法門という意味で後半を「本門」と呼び、それに対して始成正覚の仏、すなわち権仏(垂迹仏)の法門という意味で前半を「迹門」と呼んで区別しているのです。

大聖人は開目抄の中で「一念三千の法門は、ただ法華経の本門寿量品」(新版54㌻)と述べられています。
一念三千の法門は、その実義は迹門には無く、ただ本門の久遠の成道そのものを説き明かした「寿量品」のみにあると述べています。ゆえに同じ法華経といっても、迹門は劣り、本門は勝れていると決定し、大聖人は「理の一念三千」と「事の一念三千」を対比して、迹門「理の一念三千」は劣り、本門「事の一念三千」が勝れていると断定しました。これが「本迹相対」の結論です。

さて、それでは迹門(理の一念三千)が、なぜ本門(事の一念三千)より劣っているのかを詳しく見ていきたいと思います。

まず、迹門の説法では、釈尊自身が「いつ、どこで、どのような原因」で仏になったのかということは明かしておらず、二乗をはじめ、当時の衆生と釈尊の関係性はどうなっているのかなどの全容も示されていませんでした。
迹門の説法では、あくまでも釈尊はインドに生まれ、三十歳の時に菩提樹の下で始めて成仏した仏、すなわち外用の姿は「始成正覚の仏」という立場で教えを説いています。
しかし、この始成正覚の姿は釈尊の本地の身ではなく、ただ衆生を化導するために用いた「仮の姿・垂迹」にすぎません。いくら垂迹という「仮の姿」の仏が〝万人が平等に成仏することができる〟と主張しても、それは理論上のことで、ここに成仏の本地があるわけでも、成仏の実体があるわけでもないのです。
もっと厳密に言えば、迹門の理の一念三千には三世間、いわゆる「衆生世間・五陰世間・国土世間」はまだ示されておらず、実際は「百界千如(十界互具・十如是)」でしかないのです。

【観心本尊抄】(新版124㌻)

【質問】
百界千如と一念三千の違いは何んですか?

【答え】
・百界千如は有情界に限り、
・一念三千は情・非情に亘る!

観心本尊抄の中で「百界千如と一念三千の違いは何んですか?――」という質問に対して、大聖人は「百界千如は有情界に限り、一念三千は情・非情に亘る」(新版124㌻)と答えられています。
大聖人が言われたこの「有情・非情」という言葉は、現代に置き換えれば、いったいどんな意味になるのかというと――
宇宙にあるすべてのものを、現代の科学的表現で分けるとすれば「生物と無生物」とに分けることができます。つまり、生物とは生命のあるもの、無生物とは生命のないものという意味ですが、仏法では、生物と無生物といった区別は一切存在せず、これに代わって「有情・非情」という存在に分類します。

【有情と非情の違い】

【有情】
人間・動物などのように感情や意識を持ち意思活動を自主的にできる生命。
【非情】
草木・山河・大地のように無感情や無意識でその活動も他動的なもの。
【結論】
・百界千如は有情に限る。
・一念三千は「情・非情(宇宙一切の森羅万象の成仏)」に亘る。

① 有情とは、人間・動物などのように感情や意識を持ち、意思活動を自主的にできる生命ともいえるので、「百界千如は有情界に限る」と大聖人は教えられたのだと思います。これに従えば、百界千如は感情や意識を持って、意思活動を主体的に行える生命の成仏のみに限定されると捉えることができます。
② 非情とは、草木・山河・大地のように無感情や無意識で、その活動も他動的なものともいえます。したがって、植物は生物学上、動物とともに食物連鎖の中にありますから、本来は生物に属しますが、仏法から見るならば、植物は非情であり、無生物である土や石と同じ範ちゅうに含まれます。大聖人は「一念三千は情・非情に亘る」と教えられていますから、一念三千は宇宙一切の森羅万象の成仏に亘ると捉えることができます。

また、一人の人間の中にもこの「有情・非情」が存在します。たとえば、私たちの爪や髪の毛は、いくら切っても痛くありません。それは爪や髪の毛は神経の通っていない、また感情がない非情の部分だからです。

【草木成仏口決】 (新版1778㌻)

我ら一身の上には有情・非情具足せり。
爪と髪とは非情なり。きるにもいたまず。
そのほかは有情なれば、切るにもいたみ、くるしむなり。

大聖人は、草木成仏口決の中で「我ら一身の上には有情・非情具足せり。爪と髪とは非情なり。きるにもいたまず、そのほかは有情なれば、切るにもいたみ、くるしむなり」(新版1778㌻)と教えられています。

【仏法の基本存在論】

【生死不二】   生 → 有情
死 → 非情
【依正不二】  正報 → 有情
依報 → 非情
【関係性】
・有情も非情も「二にしてしかも不二」という縁起の関係にあり、共に妙法蓮華経の当体であり本質的には無差別である。
・「二にしてしかも不二」「不二にしてしかも二」というのが、縁起論の基本構造であり、仏法の基本存在論となる。

また有情と非情を「生死」に分ければ、有情は生、非情は死です。正報と依報に分ければ、正報は有情、依報は非情になります。――もともと仏法では、「生死不二」「依正不二」と説いていますから、有情も非情も「二にしてしかも不二」という縁起の関係にあり、ともに妙法蓮華経の当体であって、本質的には無差別ですが、縁にふれて差別の相を表しているのです。この「二にしてしかも不二」「不二にしてしかも二」というのが、縁起論の基本構造であり、仏法の基本存在論となります。
「百界千如と一念三千」の違いを大聖人の視点から見ていけば、両者は、救われる対象の規模といい、教えの深さのスケールがぜんぜん違うことが分かります。

さて、百界千如と一念三千の違いを「現実の世界」を通して見てきましたが、今度は教相・教義の面から見ていきたいと思います。
先ほども述べましたが、迹門の理の一念三千は、実際には「百界千如」のみが説かれただけです。しかし「本因・本果・本国土」の三妙が合論された本門寿量品にいたって、はじめて「三世間(衆生世間・五陰世間・国土世間)」が整足されたことになり、完璧な「一念三千の法門」となりました。

ここは非常に大事なところなので表現を変えて解説します。
たとえば、今までさんざん「二乗は絶対に成仏しない」と弾喝していた釈尊が、方便品で十如実相を明かし、「実は万人が等しく成仏することができる」と宣言しましたが、その説法を聞いて、その真意をただ一人、理解した舎利弗は涙を流して喜びます。しかし舎利弗は「九界の衆生の誰もが成仏することができる」と理屈の上で理解したにすぎず、実際に「舎利弗が成仏した」という実体はどこにもありません。しかも舎利弗は、釈尊から「未来世において華光如来(仏)となる」と仏の記別を受けますが、ただ記別を受けたというだけで、舎利弗はまだ「二乗」の姿のままで何も変わっていません。

【迹門の欠点①】

【有名無実】
名称は有るが実体が無いという意味。
【結論】
有名無実が迹門の一念三千における欠点の一つ。

これを有名無実(うみょうむじつ) といいます。有名無実とは、名称は有るが実体が無いという意味です。この「有名無実」が迹門の一念三千における欠点の一つです。

そして二つめの欠点は、釈尊の「発迹顕本」が示されていないことです。

【迹門の欠点②】

【開目抄】(新版66㌻)
迹門において釈尊はまだ発迹顕本していないので一念三千の実義はまだあらわれておらず、二乗の成仏も定まっていない。それはあたかも天空にある月を見ないで池に映った月(水中の月)を見て、それが本当の月であると思っているようなものであり、浮き草(根無し草)が波にただよっているようなもので非常に浅い。(趣意)
【本無今有】
発迹顕本とは〝迹仏の境地を払って本仏の境地を顕す〟という意味ですが、発迹顕本していないことを本無今有(ほんむこんぬ)ともいいます。
・発迹が「今有(こんぬ)」
・顕本が「本無(ほんむ)」に当たる。

大聖人は開目抄の中で「迹門において、釈尊はまだ発迹顕本していないので一念三千の実義はまだあらわれておらず、二乗の成仏も定まっていない。それはあたかも、天空にある月を見ないで、池に映った月(水中の月)を見て、それが本当の月であると思っているようなものであり、浮き草(根無し草)が波にただよっているようなもので非常に浅い(趣意)」(新版66㌻)と迹門の二つ目の欠点を指摘しています。
発迹顕本とは〝迹仏の境地を払って本仏の境地を顕す〟という意味ですが、発迹顕本していないことを本無今有(ほんむこんぬ)ともいいます。発迹が「今有(こんぬ)」で顕本が「本無(ほんむ)」に当たります。

大聖人は迹門の二つ目の欠点を「十法界事」の中で次のように説明しています。    「迹門には、ただ始成正覚(菩提樹の下で始めて覚った)の十界互具を説いただけ で、未だ真実の十界互具を明かしていない。それゆえに教化される九界の大衆も、教化する仏も、すべて今始めて十界互具を覚るという立場である。そうであるなら、本無くして今有るという欠点をどうして免れることができようか(趣意)」(新版371㌻)と教えられました。

【三重秘伝抄】日寛上人著

【迹門の一念三千】の二つの欠点
本無今有(ほんむこんぬ)
意味 → 発迹顕本していない。
有名無実(うみょうむじつ)
意味 → 万人が成仏するという名称はあるが実体がない。

日寛上人も「三重秘伝抄」の中でこの御文を引用し、迹門の一念三千は「本無今有(ほんむこんぬ)」、つまり発迹顕本していないということと、「有名無実(うみょうむじつ)」、万人が成仏するという名称はあるが実体がないという二つの欠点があることを指摘しています。

繰り返しになりますが、迹門の一念三千では、人と森羅万象――つまり、我が身と国土(諸法)は依正不二(実相)の関係にあるという「諸法実相(十如実相)」を明らかにしましたが、結局それは理論の世界であり、衆生が平等に成仏することができるといっても、ただ可能性の話であって、まだ釈尊(仏)と衆生(九界)の関係性は示されておらず、釈尊が仏に成ったという「因果」も説かれていないのです。
これに対して、本門寿量品では釈尊が発迹顕本したことによって、釈尊自身がどのようにして仏になったのかという「本因」と、いつ仏になったのかという「本果」と、どこで仏になったのかという「本国土(所住の国)」が明らかになりました。すなわち、実際の現実世界での時間軸で、釈尊自身の「本地」と「仏(釈尊)と衆生の関係性」を明確に示したのです。
三妙合論を経文で見ていくと、まず寿量品には「我、実に成仏してより已来(このかた)、無量無辺」とありますが、この文によって「始成正覚の仏の身」が打ち破られ「久遠実成の仏の身」が示されました。

【三妙合論】by法華経

・本 因(妙) ・・・・「我本行菩薩道」の文
・本 果(妙) ・・・・「我実成仏巳来」の文
・本国土(妙) ・・「娑婆世界説法教化」の文

■九界即仏界・娑婆即寂光の原理自体
「幸福は決してどこか遠くの世界にあるのではなく、成仏は決して別世界にあるのではない」ということを物語っている。

要するに、今まで「三十歳の時に菩提樹の下で始めて悟り成仏(始成正覚)した」と言って来たけども、実はそうではなく、久遠という昔にすでに仏(久遠実成)であったことを示したのです。これを発迹顕本とも、広開近顕遠(こうかいごんけんのん)とも名付け、三妙合論では「本果(妙)」に当たります。
また久遠実成とともに「我れ本(もと)、菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命は、今猶(いまなお)未だ尽きていない」と説いています。
当時の衆生や弟子たちは「仏というものは、ただ清らかな生命のみがあって、九界の迷いの衆生から脱し、もはや九界の生命などありようはずがない」と考えていました。
しかし実はそうではなく、釈尊(仏)自身も無始以来、九界の生命が具わっており「仏界即九界・九界即仏界」の生命の当体であることを釈尊自身が表明したのです。これが「本因(妙)」です。この釈尊の因果(本因・本果)が明かされたことによって、釈尊自身の生命の上に事実として本当の「十界互具・百界千如・一念三千」が展開されました。
また当時の衆生や弟子たちは、自分たち衆生の住むこの娑婆世界と、仏の住む常寂光土とは明確に区別し、仏の住む寂光土は娑婆世界とは違うどこか別の世界にあると考えていました。
ところが実はそうではなく、釈尊は「これより已来(このかた)、我常に此の娑婆世界に在って説法教化す」と明かします。つまり、この娑婆世界こそが仏の常住する常寂光土の世界であり、一切の経典に説かれるあらゆる仏国土はすべて釈尊の化導の国々であることを宣言し、それと同時に、久遠以来、一切衆生を教化してきたと「釈尊と衆生」の関係性を明らかにしたのです。
言い換えれば、娑婆世界に即して寂光土があるのであって、「寂光土」なる世界が単独で存在するわけではないことが明かされたのです。この「娑婆即寂光」の原理を示したことによって、国土も妙法の当体であることが明らかになったのです。これが「本国土(妙)」という意味です。
この九界即仏界・娑婆即寂光という原理自体、「幸福は決してどこか遠くの世界にあるのではなく、成仏は決して別世界にあるのではない」ということを物語っています。

以上、本迹相対を教相面から見てきましたが、ここで一度、整理します。
迹門の方便品には百界千如が説かれ、本門寿量品には三妙(本因・本果・本国土)が合わせて説かれています。
釈尊が本当に説きたかった「真実の教え」とは、本門寿量品で説かれた「三妙合論」のことです。そしてこの三妙合論こそが仏教の根本の教えとなります。
もし、釈尊が本門寿量品でこの実義を説かなかったとしたら、誰も釈尊が仏になった本果も、本因も、本国土も知らず、ただ自分自身に仏界が具わっているという理論だけに終わっていたと思います。
釈尊が本門寿量品において発迹顕本を示し、久遠実成(本地)を明かしたことによって、仏と衆生の関係性も明らかとなり、九界の衆生たちを久遠以来、三世にわたって化導(成熟)し、最後に本門寿量品をもって仕上げる(脱益)という、釈尊一代五十年の説法、いわゆる「釈迦仏法(脱益仏法)」は完結したのです。
ところが大石寺・日寛上人の御在世当時、日蓮宗の僧・日講(にちこう)などは、この本迹相対に迷い、その真意をくみ取ることが出来ずに「本迹勝劣」ではなく、「本迹一致」などという邪義に執着していました。
日蓮宗・日講の主張は「本門の発迹顕本を経て迹門を見渡せば、その実相は同じであるから本迹一致となる」(啓蒙、趣意)という主張です。(「啓蒙」は日講が著した著作)

この日講の邪義に対して、日寛上人は六巻抄の中で「もし日講の説が正しいとするならば、無量義経に未顕真実と説かれてあるのも『権実一致』を意味すると解釈することになるが、そう解釈することはできまい」と論破しています。
さらに日寛上人は日講の「六義の説(啓蒙)」を取り上げて注釈を講述しつつ、その邪義を徹底的に破折しました。
要するに、日蓮宗の僧に対する日寛上人の破折は、大聖人の教判のあり方は、「五重の相対」を基本として、内外も大小も、権実も本迹も「一致か否か」ではなく、どちらが劣り、どちらが勝れているかという「勝劣」が基本にあり、その教判で一切経を判定しているということを教えたかったのだと思います。
現代風に言えば、どちらが人間にとって価値的な思想かという「価値創造」を基本に置いた教判です。
そもそも創価学会は、日蓮大聖人の教判思想(五重の相対論)を基本として、万人が幸せになる思想を撰び取り、その最高善の価値的思想を全世界に流布していこうと立ち上がった宗教団体です。それなのにその基本となる大聖人の教義を「教学はちょっとむずかしいから……」と言い訳をして学ばず、またそれを真剣に教えようともせず、選挙活動ばかりしているのが、今の原田学会です。三代会長が命をかけて築かれた誉れある「創価学会」の会員であるという自覚があるならば、真剣に信行学の実践に取り組むべきではないでしょうか。そして教学力を身に付け、何が起きても粉動されない自分自身を築いていくことが大切だと思うのです。

最後に、迹門で諸法実相(十如実相)が説かれたことによって、一念三千の理法は一往成立していますが、「時間的因果」――つまり、釈尊が始成正覚を打ち破って、久遠実成を示し、釈尊の三妙合論(本因・本果・本国土)が明かされたのは本門です。ゆえに「本門の事の一念三千」「仏界即九界(九界・仏界、相互に具備する仏界を中心とした十界)」は絵空事の話ではなく、現実の世界なのです。その意味において、迹門を理の一念三千、本門を事の一念三千と名付けます。
以上、迹門と本門の一念三千を対比して解説してきましたが、一念三千は「宇宙の法」とか、「根本の法」と言った単なる理論や観念論ではなく、最も重要なことは「人法一箇」という仏身に即した事実の世界、現実の世界が「本門」であるということを理解すべきだと思います。

以上で「本迹相対」の講義を終わります。ありがとうございました。