座談会御書「千日尼御前御返事(雷門鼓御書)」2022年(令和4年)11月度
〈御 書〉
御書新版1746㌻4行目~6行目
御書全集1316㌻15行目~18行目
〈本 文〉
譬えば天月は四万由旬なれども大地の池には須臾に影浮び雷門の鼓は千万里遠けれども打ちては須臾に聞ゆ、御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来れり、仏に成る道も此くの如し、我等は穢土に候へども心は霊山に住べし、御面を見てはなにかせん心こそ大切に候へ
〈講 義〉
御書を拝読する上で、僕は、大聖人がどんな状況で、どんな人を、どのように励ましたのか、その背景を知る事で、お心を一層理解する事ができると考えています。
御書は、一部の切り取りや言葉尻だけを使えば、日顕宗の様な使い方もでき、ある方向性に誘導するプロパガンダに使うことも出来てしまいます。
なので、当時の状況や言葉の意味合い、大聖人がどの様な思いで語られたのかを知る事で、そのお心を更に深く理解する事が出来るのだと考えます。
例えば、男子部の頃に学んだ「謗法」についてですが、当時の私は「徹底的に責めるのが正義!」とイケイケ状態でした。
そんな中 大聖人は、相手の方の状況に合わせて、一見違った意味に思われるお話をされている事を知り、「おや?」と戸惑ったのを覚えています。
この仏法は謗法厳誡と言われるように、送られたお手紙には経文を通されて厳しく戒められている箇所が多くあります。
僕がまず頭に浮かぶのは、曾谷殿御返事です。
曾谷殿御返事
「涅槃経に云く「若し善比丘あつて法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遣し呵責し挙処せんは是れ我が弟子真の声聞なり」云云」御書全集P1065
(涅槃経にはこうある、「もし正しい僧と思われる人であっても、法を破る者を見た時に、責め、追い払い、その悪行を世に知らしめる事をしなければ、まさに知るべきである。この人は仏法の怨である。もし、追い払い、責め、悪行を知らしめるならば、その人は我が弟子であり、真の声聞である)
謗法に対する姿勢は、様々な御書で御指南されていますが、この涅槃経を通されて諫められる箇所は数多く見られます。
次に御講聞書です。
御講聞書
「置の一字は獄卒なるべし謗法不信の失を見ながら聞きながら云わずして置かんは必ず無間地獄へ堕在す可し」御書全集P842
(「置」 という一文字は獄卒である。謗法不信の過ちを見たり聞いたりしておきながら、何も言わずそのまま置いておく行為は、必ず無間地獄に堕ちるのである)
この様に、徹底して責めていきなさいと言われる厳しい御文は御書に多く見られ、私たちは「謗法厳誡」である事を学んできました。
しかし、大聖人が厳しく諫められている中、女性信徒である日女御前に宛てられた御書には、この様にあります。
日女御前御返事
「相構えてとわりを我が家へよせたくもなき様に謗法の者をせかせ給うべし」
御書全集P1244
(相構えて、遊女が我が家には来て欲しくないと思うように、謗法の者は追い払っていきなさい)
また、阿仏房尼御前御返事には、
阿仏房尼御前御返事
「浅き罪ならば我よりゆるして功徳を得さすべし、重きあやまちならば信心をはげまして消滅さすべし」御書全集P1308
(浅い罪であるならば、我より許して功徳を受けさせてあげなさい。 重い過ちならば、信心を励まして消滅させてあげなさい)
一見すると、徹底的に責め切っていくべきなのか、ただ追い払うだけなのか、それとも、許して励ましていくべきなのかが分からなくなってしまいます。
「日女御前御返事」では、先ほどの御文の後に「悪知識を捨てて善友に親近せよとは是なり」と続き、先生は本幹でこの様に指導されています。
<第四十回本部幹部会>2010.5.13
「私どもは成仏という、絶対の幸福への軌道を進んでいる。この軌道を狂わせ、軌道から脱落させようとするのが、「悪知識」「悪友」である。言葉たくみに近づき、美しき、仏子の世界を壊そうとする。こうした悪人は、断固として寄せつけてはならない、との仰せである。」
また、大田区幹部総会では、「阿仏房尼御前御返事」を通され、
<8・24記念大田区幹部総会 >1987.8.23
「御書に繰り返し引かれている 章安大師の、「彼が為に 悪を除くは、すなわち是、彼が親なり」、との文の如く、慈悲の一点にある事を忘れてはならない。故に信心をしている 同志の謗法に対しては、程度の差はあるが、むやみに責め立てたり、追いつめて 逆に信心から離れさせてしまう様な事は、絶対にあってはならない。あくまでも、その人の信心を、より前進させてあげよう、深めさせてあげよう、と励まし指導していく、 忍耐強い、慈悲の一念が大事なのである。そうでなければ、正義という名を借りた、権威の乱用を招く恐れがある。その点に、よくよく留意していかねばならない事を、将来のために、私は 特に強く申し上げておきたい。」
特にこのご指導は、新宿に集まる無慈悲な自称弟子たちに「しっかり読め!」と言ってあげたいと思います。
謗法は厳禁なので、どこまでも自分を律していく事が大切であり、謗法を容認してもいけません。
その正義感から時には激しく攻め立てる事もありますが、その根本は慈悲であるという事を教えられています。
特に女性は、ひとたび立ち上がれば男性よりも正義感が強いので、敢えて優しく諭されたものだと考えます。
また身分制度の強かった当時、例えそれが正義であったとしても、権力者から一たび睨まれれば一族ごと立場を追われてしまう時代なので、門下の身を案じて様々な角度から励まされたのだと思います。
私たちは謗法厳誡と学んできましたが、この様に御書の一部だけを読めば、本義は一つであっても謗法との向き合い方は様々に思えてしまいます。
過去に組織から、顕正会が訪問してきた際「帰れ3回、警察を呼べ」などと、破折の精神を失った指示が下りてきた事もありましたが、先ほどの「わが家へ寄せたくも無き様に」とは、そのような意味合いで無い事が分かります。
御書を学ぶ時、その背景にはどの様なお心遣いがあるのか、それを知る事で私たちの理解も一層深める事ができます。
そうする事によって、日顕宗の切り文や、組織のプロパガンダに用いられている事などに、一人一人が気付ける様になるのではないでしょうか。
それでは、前置きが長くなりましたが今回の御書「千日尼御前御返事」に移らせていただきます。
はじめに、今回の御書について金原さんにお伺いしたところ、壇林の研究で様々な見解がある事を教えて頂きました。
御書の解説に入る前に、まずはそれをお伝えいたします。
この御書の題名は「千日尼御前御返事」となっていますが、その対告者は「千日尼では無い」というものです。
御書の御消息ものなどは、特定の人に宛てられたお手紙なので元々題名はなく、私達が学ぶ上で混同しない様にと後から付けられています。
それらは、精査した上で付けられたものと思われますが、当時より資料が豊富な現代では様々な分析がなされます。
その上で「千日尼御前御返事」とされてきた今回のお手紙の対告者は、同じ佐渡に住む国府入道の奥さん「是日尼」ではないかとされています。
大聖人の佐渡流罪中、弟子達と共に献身的に給仕に努めた信徒は御書にその名が見られます。
特に阿仏房、国府入道、一谷入道は仲が良く、ご夫婦共に交流があった様です。
また、阿仏房と国府入道は、一緒に身延に向かうなど大変親しい関係にあったとされます。
大聖人の佐渡赦免後、阿仏房が3度身延を訪問した話は有名ですが、国府入道は年ごとに4度訪問されたと言われます。
20日以上かけて身延を訪れ、しばらく滞在した国府入道は、野菜を収穫し、水を汲み、たきぎを準備するなどの給仕に努めました。
またある時は、40日以上の往復時間をかけて訪れながら、たった1日で帰路についた事もあったと言います。
これらを伺うと、師に仕えるその思いはどれほど強かったのでしょう。
今回の、「千日尼に宛てた」とされる御書は、最初に題名が付けられた「日朝目録」に記載があり、現在までその様に認識されてきました。
しかし、その書には誤りが見られる事や、時系列も含めた当時の背景を精査した結果、国府入道の妻「是日尼」に宛てたものと考えた方が自然であるとされます。
また、阿仏房の伝承として知られている、承久の乱によって流罪された順徳上皇のお供として佐渡に渡ったという話がありますが、その裏付けは確認できていないそうです。
「千日尼」という名前の由来も、1,000日間の「水ごり」を行った末に、そう呼ばれたとされていますが、大聖人ご自身が命名されたとも言われます。
しかし、それら伝承の有る無しにかかわらず、阿仏房夫妻が佐渡で給仕し、90歳に近い高齢の身で身延に3度訪問された事実を見れば、とても信仰心の厚いご夫妻であった事に変わりありません。
また、この機会に豆知識としてお話させて頂きますと、阿仏房の名前は「遠藤左衛門尉為盛」という名で知られる所ですが、左衛門尉の官位にあったかどうかは不確かな様です。
皆さんは、これらの名前を聞いた時「当時の人は、やけに名前が長いな」と感じた事はないでしょうか。
当時は身分こそが、その人の権威を表すものだったので、武士などは名前に役名を入れて呼ばれていました。
例えば四条金吾は「四条中務三郎左衛門尉頼基」と言いますが、中務は職業で、今でいう宮内庁の様なものです。
そして左衛門尉は役職で、それを中国風に言うと「金吾」(唐名)となります。
なので、四条金吾の本名は「四条頼基」となります。
当時は、その家の者が代々家督を継ぐ慣わしなので、苗字の次に役職がきて、次に名前となることが通例の様です。
なので今でいうフルネームでは無く、役職を含んだ名前となります。
さて話は逸れましたが、今回学ぶ御書は阿仏房尼、国府入道尼、どちらに宛てられたお手紙であるかはさておき、師を求めた方への御返事となりますので、大聖人の真心を学んでいきたいと思います。
この御書は、遠路佐渡から訪れた夫、それを送り出し、留守を守っている妻に宛てられたお手紙となります。
当時、佐渡から身延までの道のりはどれ程のものだったのでしょう。
大聖人流罪の際は、新潟の寺泊から佐渡の松ヶ崎まで船で渡ったと言われていますが、当時運搬船が盛んだったのは、宿根木と言われます。
まず、信徒が暮らす地域から船着き場までは、約1日の距離。
港から本土まで船で渡りますが、海がしけていると船宿で何日でも待たされるといいます。
寺泊に着いてから身延まで、現在の地図で徒歩検索してみると、320km、66時間となりますが、当時は道の開けていない山々もあり、その道程は大変なものだったと考えられます。
大聖人が流罪された際の鎌倉・佐渡間と、佐渡・身延間の距離は ほぼ同じなので、大聖人流罪の際の記録を見てみましょう。
手持ちの資料によりますと、10/10に鎌倉を出発して、11/1に佐渡に到着しており、港での足止めも含めると23日間の道のりとなります。
佐渡から門下が向かう際はお供もいたと思われますが、整備されていない道を、ご供養の品を持ち、阿仏房に至っては90歳という高齢の身で向かうには大変に険しいものだったと思われます。
これらを踏まえると、身延訪問は1か月半から2ヶ月近いものだったと考えられ、阿仏房夫妻も国府入道夫妻も、師匠を求める志が物凄く強かったのだと感じます。
また、夫に託された妻からの手紙には、法門に対する質問などが含まれているので、求道心の溢れる方だったと思われます。
そんな尼御前が「もう大聖人にお会いする事が出来ないかも知れない」と思っている その心を受け止めて、ご返事にしたためられたのが今回の御書となります。
「千日尼御前御返事」別名・雷門鼓御書と呼ばれ、御書全集P1316㌻の15行目からが、今回の範囲内容となっています。
短い御書でもありますので、全体の内容から抜粋して簡潔に説明をさせて頂きます。
皆さんの中には、この御書で心に留められている御文もあるかも知れませんが、その内容が含まれていなくても全体の説明となりますのでご了承ください。
・初めに大聖人は、ご供養に対する感謝を述べられています。
・次に、「法華経に勝れたる経なき」と法華経は一切経の頂であると説明され。
・その、「法華経を供養する人は十方の仏菩薩を供養する功徳と同じ」であると説明されます。
・そして、それら「十方の諸仏は 妙の一字より生じ」ているのですと話され。
・「法華経は師子王の如し、それは一切の獣の頂きであり、法華経の師子王である(南無妙法蓮華経を持つ)貴女は、一切の地獄、餓鬼、畜生など、百獣に恐れる事はない」と励まされています。
また法華経以前の経では五障三従と言われ、女人の罪は重く成仏できないとされていたので、女人成仏を明かした法華経の功力を、次のように説明されます。
・「女性の一生の間の罪は、諸々の干し草の様なものである。法華経の妙の一字は小さな火の様に思えても、その火が草に着けば、一切の草は焼け亡ぶだけではなく、大木や大きな岩をも、みな焼け尽くすのである」と。
そして、そんな信心強き 尼御前に、
・「女人の身で法華経を志し、毎年 夫を使いに出してお訪ね下さっている。定めて法華経 釈迦多宝 十方の諸仏は、其のお心を よく御存じでしょう」と励まされています。
以上が、前文の全体となり今回の範囲に続きます。
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譬えば天月は四万由旬なれども大地の池には須臾に影浮び雷門の鼓は千万里遠けれども打ちては須臾に聞ゆ、御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来れり、仏に成る道も此くの如し、我等は穢土に候へども心は霊山に住べし、御面を見てはなにかせん心こそ大切に候へ
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はじめに語句の説明をさせて頂きます。
「由旬」 インドの距離単位です。帝王が行軍する1日の距離とされ、その距離は10㌔とか16㌔という説があり。
「須臾」 瞬時・瞬間。すき間なく という意味。
「雷門の鼓」 中国・浙江省の雷門にあったとされる大太鼓。 その音は1,000㌔離れた河南省にまで届いたと言われる伝説の太鼓。
「穢土」 私たちが住むこの土地を指します。この土地は第六天の魔王の所領とされており、穢れた土地なので、悩みや苦しも多くある 。
「霊山」 釈尊が法を説いた場所が霊鷲山。尊極の教えを説いた聖地とされていますので、浄土の意味を持つ。
では、本文に入っていきます。
「譬えば天月は四万由旬なれども大地の池には須臾に影浮び」
(例えば、天に浮かぶ月までは、4万由旬の距離があると言われていますが、大地の池を覗けば一瞬にしてその月は映り込んでいます)
先ほど、ご説明した様に1由旬が10㌔であるとか、16㌔であるなど様々な説がありますが、数字にこだわる問題ではないと思っています。
例えば地涌の菩薩の数は六万恒河沙と言われ、1恒河沙はガンジス川の砂の数とされていますが、決して正確に数えられるものではありません。
法華経の宝塔の高さは500由旬であったり、須弥山の高さは8万由旬であるなど、月までの距離の2倍の高さの山になってしまいます。
何メートルであるかではなく、それほど高く、それほど多く、それほど昔という受けとめ方が大切なのだと思います。
なので、4万由旬と言えば「帝王が4万日行進するほどの距離」とイメージする事が目的だと考えます。
次に、
「雷門の鼓は千万里遠けれども打ちては須臾に聞ゆ」
(雷門の鼓は、千万里も遠く離れている場所でも、打てば一瞬にしてその音が聞こえる)
これも、現実的に考えてしまうと「太鼓の音が1000㌔先に聞こえる?」となってしまいますが、そう考える事ではなく伝説を例に挙げられていると受け止めたいと思います。
これらの例えは次の励ましに続きます。
「御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来れり」
(あなた自身は佐渡の地にいますが、あなたの心はこの身延に来られているのです)
夫を送り出した貴方の真心は、私のもとに届いています。という大聖人の包み込むような温かいお言葉。
このような御書を読むたびに僕自身気持ちはあっても、あと一歩の所でこういう一言が出てこないと反省します。
「御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来れり」
(仏になる道も、この様なものなのです)
信仰というのは、形でもスタイルでもなく、相手を思いやる心。そのものが信心であり、その心を高めていくのが修行なのだと思います。
一言で謗法と言っても、突き詰めていけば人を無下にする無慈悲な行為を指すのであり。
破折とは、それを排除して慈悲で接する事であると考えます。
信仰は、決して教条的に行なうものではなく「心こそ大切」の一語に尽きるのではないでしょうか。
次に、
「我等は穢土に候へども心は霊山に住べし」
(私たちの身は、第六天の所領である穢土の地にありますが、心は霊山浄土に住んでいるのです)
流罪された佐渡は、大聖人を襲う者がいるほど念仏が蔓延する場所です。
その佐渡で暮らす尼御前に「貴方も私も、心は霊山にいるのですよ」と語りかけるお姿。
その人の生活を思い描き、どこまでも心を寄せる。見えない所が見えているというか、相手の心情にどこまでも寄り添おうとするお心。
大聖人の慈悲の深さに感動いたします。
先生も常に「そうやって励まされていたんだ」と改めて実感しました。
その様に、心が一所にある私達なのだから
「御面を見てはなにかせん心こそ大切に候へ」
(お顔を見たからといって何になるでしょう。私達のこの心こそが大切なのです)
と励まされています。
以上が 今回の範囲となりますが、僕個人としては、あと1行入れてくれればいいのにと思っています。
「心こそ大切に候へ」と話されたあと、
「いつかいつか釈迦仏のをはします霊山会上にまひりあひ候はん」
(いつの日か釈尊のいる霊山に行ったら、その時にお会いましょう)
どこまでも寄り添おうとされる大聖人の温かさを感じます。このお言葉で尼御前は、どれほど安堵した事でしょう。
この御書を通されて、先生は次の様に指導されています。
<第四十回本部幹部会・第十七回全国婦人部幹部会>
直接、お会いしたかどうか、大聖人の御もとにお伺いしたかどうか、そうした形だけで「信心」が決まるのではない。「大切なのは 心ですよ」、との教えと拝する。たしかに、大聖人のおそばにいても五老僧のような悪僧も出た。むしろ、千日尼の様な、清らかな強き信心の一門下の方が、遠く離れていたとしても、どれほど、心では 大聖人に近かったであろうか。仏法は断じて形式が根本ではない。卑近な例で言えば、親子や夫婦でも、直接、顔を見ていれば 幸福とは限らない(笑)離れていても、心が通い合っている場合もあれば、顔を見るなり、喧嘩ばかりしている場合もある(笑)ともあれ、大事なのは心である。「御顔を見てはなにかせん心こそ大切に候へ」との仰せを、さらに深く噛みしめて参りたい。(拍手)心は、なかんずく信心の一念は、易々と距離を超えるのである。
今回、この御書を拝して、お会いできない寂しさを持つ尼御前に対し「いつか霊山でお会いしましょう」。
この言葉に、どれほど尼御前が希望をもった事かと胸に響くものがありました。
この心寄せる一言が相手の希望に変わる。この一言を相手に伝えていく事が大切であるという信仰者の姿勢を学びました。
しかし、この一言自分に置き換えるとなかなか出てきません。例え、外ではこの一言が言えても「況や我が家ではにおいてをや」です。
「カミさんにもその一言を!」と決意はしますが、急に優しい言葉をかけたら「なに?気持ちワル」とか言われそうな気がして。
そういう心の中のハードルを考えると、仏への道は大変に険しいものだと思ってしまいました。
しかし、大聖人に踏襲して生きるのが日蓮門下であり、師匠に連なるのが弟子の戦いである。
と決意を新たにして、本日の御書講義とさせて頂きます。
本日はご清聴頂き、ありがとうございました。
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